« 2005年2月 | トップページ | 2005年4月 »

■0211「ムッソリーニとお茶を」

 ファシズムに染めあげられていく1935年以降のイタリアのフィレンツェを舞台に、国が対立し合う戦時下でもフィレンツェを愛し、自分に正直に生きる5人の女性たちと、親の愛情に接することのできない少年の触れ合いを気品にあふれる映像で描いた佳作「ムッソリーニとお茶を」。過酷な状況にありながら、けっして重くならず優雅さをたたえている。無邪気なほどに素直な人の横断的なつながりこそ、戦争を超える。フランコ・ゼフィレッリ監督に、これほど芯のあるユーモアのセンスがあるとは、正直驚きだった。イギリスとイタリアをともに愛する監督の心情が素直に投影されている。
 大女優たちが、個性的にして貫禄のある演技を披露しているが、シェールの輝きはやはり別格だ。自由奔放にして、優しさに満ちたアメリカ人を演じ、圧倒的な魅力を放っていた。前衛的なドレスを着こなし、華麗に踊る。50歳を超えていたとは、にわかに信じがたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0210「ジャイアント・ピーチ」

 「ジャイアント・ピーチ」(1996年)は、ヘンリー・セリック監督による人形アニメ・ファンタジー。憧れの街がニューヨークというのは原作の古さによるものだが、ストーリー自体も全体に甘すぎる。ただし、実写部分のわざとらしさが、アニメでは微塵もみられない。何度観ても飽きないほど自然で楽しいアイデアがぎっしりとつまっている。
 とりわけ素晴しいのは機械じかけの鮫との戦いのシーンだ。さまざまな映像を取り込みながら、なんというリアルさを生み出していることか。星空バックにしたミュージカルシーンも忘れ難い。うっとりするほど見事なテンポだ。また、最後の最後に用意された遊び心あふれるゲームのシーンをくれぐれも見逃さないように。
 当時同時上映された6分間の短編アニメ「ヴィンセント」(ティム・バートン監督、1984年)にも触れておこう。エドカー・アラン・ポー好きな7歳の男の子の怪奇な空想の世界は、毒のある展開が魅力的。屈折したバートン色一杯で「ジャイアント・ピーチ」の甘さと対照的だった。長編と短編の絶妙なハーモニーという点では、「耳をすませば」と「オン・ユア・マーク」を連想させた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0209「ベニスに死す」

 1990年5月に札幌で公開されたビスコンティ・コレクションの第1回上映は「ベニスに死す」だった。ビスコンティの作品は、どれも濃密だ。この映画も残酷なまでの耽美さに満ち、それが人間洞察 の深さと調和している。俳優たちもいい。ダーク・ボガードの良さは言うまでもないが 、タジオ少年役のビョルン・アンドレセンの美しさには驚嘆させられる。タジオが空と海の間でヴェロッキオのダビデ像のポーズをとるシーンの秀抜さ。少年の母親役のシルバーナ・マンガーノの演技もすごい。映画の素晴らしさを再確認するとともに、ビスコンティが資金難や同性愛をテーマにしたという多くの非難に耐えて、この作品を完成させたことを忘れてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0208「イワン雷帝」

 1990年3月。セルゲイ・エイゼンシュタイン監督の「イワン雷帝」を、劇場で観ることができた。今でこそ、DVDやビデオが出ているが、当時は一生観ることができないと思っていた。第1部と第2部からなる3時間の大作。本当は第3部も撮影されたが、スターリンによってフィルムが廃棄されてしまった。そして、第2部はスターリンの怒りをかい、上映禁止になった。狂信的専制者の悲劇をテーマにしたものだけに、当然だろう。むしろ、エイゼンシュタインがメイエルホリドのように粛清されなかったことの意味の方が大きい。エイゼンシュタインの変節ぶりを批判する向きもあるが、当時の状況を考えれば、軽々しい批判はできないと思う。
 作品は、第1部よりも第2部の方が、はるかに優れている。緊迫感が桁外れに違う。 第2部の、重苦しい血の匂いが充満した鬱屈の表現は、他に比類がない。そして、様式的な演技と構成、デフォルメされた歪みの異様なバロック性。この形式と過剰な表現は、まさに歌舞伎だ。宮殿での酒宴はカラーになるが、その見事さは、これを観て黒沢明監 督がカラー映画を始めたという伝説を納得させる。前景と後景を極端に対比させている瞠目すべき場面は、立体映画の実験という以上に、胸が高鳴った。うろつき回る影が、終始気になってしょうがなかった。15年たった今も、私に取りついている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0207「ハーモニーベイの夜明け」

 国立公園のレンジャー部隊2人を殺した人類学者・動物学者のイーサン・パウエルは、共同生活をしていたマウンテン・ゴリラが惨殺されたことに怒り、現代人から決別するために沈黙していた。西洋の「奪う者」としての残酷さ、「自由の幻想」の指摘といい、すべてを言語化しようとする精神分析医との対峙といい、「ハーモニーベイの夜明け」(ジョン・タートルトープ監督)は、文明論的、哲学的な骨組みを持っている。しかし、最も映画化しづらいテーマを無理して映画化したという感じも受けた。
 アンソニー・ホプキンスが知能指数の高い凶暴な「精神障害者」を演じている。思わず、「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督)のハンニバル・レクターを連想したが、趣きはだいぶ違う。こちらは「奪う者」を導いてしまった自分の責任を感じての理性による「沈黙」の選択であり、結局は再び言葉によって出世主義の精神分析医の目を覚まさせる。最後にパウエルは、やすやすと脱獄してしまうが、精神病棟の待遇などさまざまな問題は宙づりにされたまま残った。この投げ出された感じは監督が意図したものなのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0206「クルシメさん」

 2000年3月。1998年にゆうばり国際映画祭ファンタスティック・オフシアター・コンペティション部門で激励賞を受賞した「クルシメさん」(井口昇監督)のニューヴァージョンが、札幌のまるバ会館で上映された。好きになった人の一番嫌いなことをしてしまうという困った癖を持つ女性と、舌の先が大きく割れている女性の出会いの物語。人と関わること、他人の視線に怯えながらも、人とのつながりを切望する二人。それを追う監督のまなざしの繊細さが印象的だった。新井亜樹、唯野未歩子の演技は素晴らしい。特に新井亜樹のおどおどした態度は切なくなるほどだ。唯野未歩子はそこにいるだけで存在感があるといういつもの役柄ではなく、引っ込み思案で新鮮。身につまされるような叙情とほのかなユーモアに包まれるが、最後はコミック・ホラーになってしまう。これは監督の一種の「照れ」なのだとも思った。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0205「恋人たちの食卓」

 アン・リー監督の「恋人たちの食卓」は、現在の変貌する台湾を描きつつ、父親からの解放というテーマをもにじませた作品。アン・リー監督は料理のシーンが好き。ゲイ・カップルの偽装結婚を描いた「ウエディング・バンケット」も料理がうまく使われていたが、この作品でも次々に出てくる料理が主役になっている。もう一つの共通点は父親のリベラルさ。「ウエディング・バンケット」では息子の同性愛を知らないふりをして受け入れ、今回は志村けんのコントのような抱腹絶倒の展開。父親役のラン・シャンは見事は演技力だ。既成の価値観を余裕のあるユーモアで打ち壊していく姿勢は貴重だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0204「ゆきゆきて、神軍」

 「ゆきゆきて、神軍」(原一男監督、1987年)は、ドキュメンタリーの極限的な緊張を映像化した奇跡的な傑作。記録する者と記録される者の距離感、関係性が裸形になり、ドキュメンタリーの可能性と限界性があらわにされる。
 「神軍平等兵」と名乗る奥崎謙三が、二人の兵士を“敵前逃亡"の罪で処刑した元上官たちを訪ね、真相を究明する姿を追った。遺族とともに5人の上官から当時の状況を聞き出そうとする。しかし奥崎の暴力的な態度を嫌い遺族が同行を拒否、奥崎は妻と知人に遺族の役を演じてもらい、処刑の責任者である古清水元中隊長と対決する。誠実なのか、独善なのか分からなくなる奥崎の行動を記録し、映像記録を利用しようとする奥崎と対峙し続ける。1983年12月15日、奥崎は古清水宅を訪ね、居合わせた息子に銃を発射、2日後に逮捕される。3年後の86年9月18日に妻・シズミが死亡。この妻の死が、ドキュメンタリーに異様なリアリティを与えた。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

■0203「太陽に灼かれて」

 ニキータ・ミハルコフ監督・主演の「太陽に灼かれて」は、絶望の官能性とでもいうべき屈折した映画。スターリン時代の想像を絶する大粛清という20世紀ロシア最大のテーマに対し、ミハルコフは極めて人間臭いアプローチの仕方をしている。閉塞した状況の中でいかに陽気に生きるか、という困難な問いを突き付けながら、あくまでも官能的に描く。人々はみな美しい。中でも、監督の6歳の娘ナーシャの愛くるしさは特筆に値する。「身内を使い出すと監督も終りだ」という言葉があり、この作品についても同様の批評があるが、当たっていないと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0202「CURE」

 「CURE」(黒沢清監督、1997年)。胸元をXに切り裂く殺人事件が続発するが、加害者はそれぞれ違っている。謎が深まる中、一人の記憶喪失者が重要参考人として浮かび上がる。一種のサスペンスではあるが、 犯人探しの映画ではない。テーマは、犯行の動機と催眠のかけ方、そして心を病む妻に疲れ果てている刑事・高部と犯人の壮絶な闘いですらない。倫理の壁が崩れかけている人間のもろさと狂暴さこそ、この作品の主題だ。感性の繊毛を逆なでする音と映像が、よそよそしい爛れた水のような恐怖を静かに育てる。
 私達を不安にさせる映像。そこには「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督)を連想させる根源的な問いが偏在する。日常の中に殺人を忍び込ませる手つきは、こちらの方が一枚上かもしれない。また明治時代の映像を挿入することで、現代人を特殊化するような逃げ道も封じている。私達は最後まで何一つ答えを与えられない。刑事が犯人を射殺するラストシーンで安堵する自分が寒々しくなる。自分の疲弊した感性にぞっとする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0201「羊たちの沈黙」

 「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督)。私は原作を読み、映画化のニュースを聞き、完成を首を長くして待っていたものだ。トマス・ハリスの小説は、実に良く練られた作品で、軽々しく原作を超えたなどと言うべきではない。2時間作品なので、 小説のような細部の深みは期待できないものの、映像的なインパクトと巧みな抑制で、原作と並ぶ出来ばえ、質の高い作品になった。ただ、ハニバル・レクター博士役のアンソ ニー・ポプキンスは、もう一歩奥深い歪みを表現できなかったかと感じた。ジョディ・フォスターも、経験の少ないクラリス・スターリングの弱さをもう少し出せなかったか。しかしながら、2人が初めて会話するシーンでは、監督の巧さにうなった。いずれにしても、先駆的な作品だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0200「ファンタスティック・プラネット」

 「ファンタスティック・プラネット」(ローラン・トポール、ルネ・ラルー監督)は、私にとって、特別なアニメだ。「ファンタスティック・プラネット」の映像には、ディスコで出会った。ディスコでは、先端的なミュージックビデオを発見する喜びがあったが、ある日、奇妙なアニメがさりげなくモニターに写し出されていた。鳥肌がたった。初めてみるユニークな絵柄、切り絵を動かすようなぎこちない動き。毒のあるSFであることが、理解できた。異文化との出会いだった。1957年に発表されたステファン・ウルのSF小説を映画化し、1973年のカンヌ映画祭では、アニメ作品として初の審査員特別賞を受賞した。チェコ・アニメの名匠イジー・トルンカのスタジオで製作されたと、後で知った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0199「シャドウ・オブ・バンパイア」

 「シャドウ・オブ・バンパイア」(E・エリアス・マーハイジ監督、2000年)は、古典的な吸血鬼のイメージを確立した作品である「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)の撮影現場が舞台。しかも吸血鬼を演じた俳優マックス・シュレックが本物の吸血鬼だったら、というきわもの的なアイデアを膨らませながら、監督という仕事がまさに吸血鬼的であるというブラックユーモアに仕立て上げ、コメディ・ホラーの要素まで盛り込んでいる。思わず笑ってしまった「吸うか、吸われるか」という映画チラシのコピーは、意外に本質を突いていた。
 設定もいいが、映像も凝っている。ドイツ表現主義の質感を楽しみながら、カラーの映像も端正で美しい。そして、なんといってもシュレックを演じたウィレム・デフォーの変身ぶりに驚嘆した。アクの強い役は見慣れているが、これほどまでの怪演に巡り合えるとは。はじめ怖くて、最後は可笑しい。傑作を撮りたいという恐るべき執念に燃えるムルナウ役のマルコヴィッチも凄まじい迫力だ。モルヒネに溺れる女優グレタを演じたキャサリン・マコーマックは、官能的でコミカル。また芸域を広げた。バンパイア役の常連ウド・キアーが出ているのも、無上の喜び。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0198「キャメロット・ガーデンの少女」

 「キャメロット・ガーデンの少女」(ジョン・ダイガン監督、1997年)は、第16回ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭のグランプリ作品。アメリカ・ルイズヴィルの郊外にある高級住宅地「キャメロット・ガーデン」が舞台。心臓を病んでいる空想好きの10歳の少女は、ガーデンの芝刈りをして生活するアウトローの22歳の青年と出会い、心を通わせていく。しかし、周囲は二人の関係を理解しようとしない。社会派的な要素を盛り込み、皮肉な視線、軽めの毒をちりばめた純愛作品と呼べば良いのだろうか。
 さまざまなエピソードが次々と描かれていくが、その意味は示されない。美しい構図を見せるためだけではないかという場面もある。しかし、すべては多感な少女のまなざしに沿って流れていく。ラストの不用ともいえるCGを含め、少女のための物語なのだ。そして少女をこれ以上は望めないほどに生き生きと演じたミーシャ・バートンに拍手を送ろう。この作品のリアリティは、結局彼女の存在に支えられている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0197「お受験」

  「お受験」(1999年)は、矢沢永吉の映画初主演作。有名私立小学校への入学を目指す「お受験」と、リストラされた実業団マラソンランナーという構図で、人々の滑稽なまでの一生懸命さを描いている。滝田洋二郎監督お得意の設定だが、 注がれるまなざしは、意外に温かい。いつもなら見られる過激なシーンを意図的に外している。もはや虚妄でしかない「お受験」と企業の広告塔になった実業団マラソンを皮肉りながらも、最後に家族愛を持ってくる辺りは、しっかり受けを狙った。それも「虚妄」なのだが。
  「永ちゃん」は、スポーツに賭けながら会社に裏切られる中年男性の悲しみと頑張りを身体全体で表現していて、ハマリ役。子供役の大平奈津美は、だんだん可愛らしく、愛しくなっていく。母親を演じた田中裕子は、マンガチックでおおげさな芝居が最後まで鼻についた。ラストでは、廃部となって市民参加したかつての実業団マラソンランナーへの配慮も忘れていない。マラソンも受験も結末をあいまいなままにしているが、余韻は明るい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0196「グリーン・デスティニー」 

 「グリーン・デスティニー」(アン・リ監督)。武術の達人たちが大自然の中で闘い、悲劇的なロマンスが繰り広げられる。闘いは壮絶の一言。そのすさまじさに圧倒された。とりわけ、女性同士の闘いは、美しさと激しさが交差しながら、長い時間、息もつかせぬ格闘が続いていた。さらに、ロマンスまでも、格闘なしには進展しないほど、全編を闘いが支配している。格闘から抱擁につながっていく流れは、意外な官能性でため息が出た。絶えまなく移動して壮大で多彩な自然の表情に浸り、美意識に支えられた武術の高みを楽しみつつ、大時代的な悲恋を味わう。一歩間違うと大味な作品になりがちな題材を、巧みに料理し、大作の風格を持たせることに成功している。
 リー・ムーバイ役チョウ・ユウファとユー・シューリン役ミッシェル・ヨーの二人は、ベテランの貫禄。人間離れした技を見せても、場がしらけない。予想外の存在感があったのが、イェン役のチャン・ツィイー。政略結婚を間近に控え、自由への憧れに胸を焦がす少女が、密かに学んできた武術を生かして、無謀な冒険を始める。華奢な身体ながら、その情熱が全身にあふれ、なによりも勝ち気で意志的なまなざしが印象的。可憐さと暴力性を兼ね備えたイェンを見事に演じていた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0195「クラッシュ」

 「クラッシュ」(デビッド・クローネンバーグ監督、1996年)の全体を包む冷え切った質感がたまらない。金属的なタイトルと音楽。突き離しながらも、人間に寄り添っていく映像。狂おしい情念を秘めた人たちが淡々と出会い、そして散り散りに消えていく。映画の文法を静かに、しかし決定的に超える自在な展開で、クローネンバークは1990年代を代表する傑作を生み出した。
 ジェームズ・バラードは、交通事故を起こすが、その時の興奮が忘れられない。衝突した相手の車に乗っていた女性によって、自動車事故による性的興奮を求める人たちの存在を知らされていく。彼等の無表情の奥に燃える欲動。ホリー・ハンターがめちゃくちゃにうまい。ロザンナ・アークエットもマゾヒステックな情念を演じ切っている。
 1955年9月30日のジェームズ・ディーンの死亡事故を再現するヴォーンの衝突シーンが異様なまでにリアルだ。今日も世界のどこかで交通事故死した有名人の事故再現ショーが繰り返されているような感触を持った。振り返ってみると、私たちも交通事故死にある特別な感情を抱いている事が分かる。ベルトリッチ監督が言っているように、この映画は極めて宗教的な深みを持った作品だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0194「クロージング・タイム」

 シナリオライターをしていた小林政広の、作家性が全編にみなぎる自主製作作品「クロージング・タイム」。第8回ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭1997で、日本映画初のヤング・ファンタスティック部門グランプリに輝いた。妻子を事故で失った男の虚脱と孤独という重い題材と、ブラックユーモアに満ちた短いコントをうまく組み合わせメリハリのある構成。ただ、堂々巡りするしかない男の生き様が、ややナルシスティックに傾きすぎている点は、映画的な弱さとなっている。それは、監督の弱さでもある。
 低予算ながら、映像はけっして貧しくない。そして監督の切実な思いを、俳優たちがくみ取ろうとしているのが伝わってくる。ときに滑稽にさえ見える深水三章の淡々とした演技が、次々と登場する女性たちの孤独とたくましさを浮かび上がらせていく。マスター役・中原丈雄のあくの強い演技と絶妙のバランスを保っていた。終わり方のわざとらしさが惜しまれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0193「ボーイズ・ドント・クライ」

 「ボーイズ・ドント・クライ」(1999年)は、ネプラスカ州フォールズ・シティで、1993年に殺害された性同一性障害(心の性と身体の性が不一致)のティーナ・ブランドンの生きざまを追った作品。女性監督キンバリー・ピアースの初めての劇場用長編映画。ピアース監督の熱意と抑制が伝わってくる佳作だ。自分の女性としての身体を嫌悪し苦悩するブランドンの内面を追求するのではなく、欲望に忠実に生きたために死ななければならなかった前向きな人間として描いている点が特徴。ヒラリー・スワンクの渾身の演技は、アカデミー賞主演女優賞にふさわしく、この難しい作品に痛いほどのリアリティを与えている。
 性同一性障害。昔から存在したはずの障害について、近年になってやっと存在があきらかにされてきた。映画の中では、心と身体の不一致がもたらす心理的な葛藤はさりげなく示されている。このため、同性愛と混同している解説が散見されるのは残念だ。同性愛は障害ではないが、性同一性障害は治療が必要な患者。性的な指向は、異性愛、同性愛という二分法で区分できるほど単純ではない。私は、その事実をまず認めることから始めるしかない。たとえば、少年と少女の身体が入れ代わる大林宣彦監督の「転校生」は、どのように感じるのだろう。こんな疑問こそ、的外れかも知れない。
 ブランドンが女性の身体と知っても、自然に受け入れたラナを演じたクロエ・セヴィニーのさりげなく演技も印象深い。自由に生きているように見えたラナの母親が、ブランドンを「化け物」とののしった姿勢と、あまりに対照的だった。ラナの柔らかな感性と周囲の無理解という構図についても、考えさせられた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0192「蛇女」

 「蛇女」(清水厚監督、2000年)は、ダリオ・アルジェントほど徹底してはいないが、恐がらせてやろうという意志に支配されたスタイリッシュな映像は、観続けるうちにそれなりの効果を上げ始める。「蛇女」という古典的な題名も、内容を考えてみればいいかげんなものだが、監督の意図は伝わってくる。怪奇の世界と呼ぶにふさわしいB級作品。たぶん、部屋でひとりで見るべきタイプの映画だ。エリック・サティの曲「Gnossiennes」が巧みに使われていた。
 それにしても佐伯日菜子は張り切っていた。新進モデル・矢野文として前半で神秘的な美しさを発散しつつ、中盤では恐怖に絶叫し、終盤に至っては感情の糸が切れた過激な演技を見せる。「催眠」「富江」の菅野美穂に迫る振幅。いや「ピノキオ ルート964」で見せたヒミコの驚愕の演技を連想させる。夏生ゆうなもなかなか凄みがあったが、佐伯日菜子の魅力にはかなわない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0191「チェリーの味」

 「チェリーの味」(1997年)は、素人俳優を起用したシンプルなストーリーに、深い情感を縫い込めるアッバス・キアロスタミ映画。自殺を実行しようとする男を追いながら、自然の美しさと生きる事のかけがえのなさを静かに示す。出演した人たちは驚くほど自然で説得力のある演技をしているが、けっして素朴ではない、一筋縄ではとらえられない監督の手練手管が隠されている。
 穴の中で死んだ自分に土をかける人間を探していたバディの態度には、かすかに救いを求める気持ちとは裏腹に、傲慢さが表れている。しかし、かつて自殺しようとして思いとどまった老人の話を聞くうちに、その決心が揺らぎ始める。そして恋人たちに頼まれて写真を撮った瞬間、彼の表情が変わる。自然や人々のしぐさが彼に語りかけ始める。この何気ない、しかし見事なシーンが眼に焼き付いている。ラストの楽し気なビデオ映像は、バディが凝り固まった思いから解放されたように、映画という枠組みからも観客を解放する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0190「オン・ユア・マーク」

 近藤喜文監督の「耳をすませば」と同時上映された宮崎駿監督の「オン・ユア・マークOn Your Mark」が忘れられない。もともとは、チャゲ&飛鳥のコンサート用プロモーションフィルムとして、1995年にスタジオジブリが制作したもの。6分40秒の短編ながら、時代に対する鋭い毒を盛り込んでいる。せりふは一言もない。しかし、宮崎駿監督の絶望と希望が凝縮されている。DVDになることを切に願う。もっとも宮崎駿監督自身「基本的に悪意で作った映画」と言っていたが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■0189「タイタス」

 「ライオン・キング」の舞台演出で、高い評価を得たジュリー・テイモアの初映画作品「タイタス」(1999年)。シェイクスピアの戯曲中、最も残虐と言われている「タイタス・アンドロニカス」を大胆に組み替えて、ケレン味に満ちたスキャンダラスな映像世界を構築している。確かに果敢な挑戦であり、想像力の豊かさも認めるが、今一つ突き抜けた美しさに欠ける。残酷なシーンの手前で引き返してくるような躊躇が感じられる。だから、ラストの希望もさほど心に響いていない。ピーター・グリーナウェイ監督に似ている面もあるが、知的な悪意は感じられない。
 何と言ってもタイタス役アンソニー・ホプキンスの名演技をたたえなければならない。彼の存在感がなければ、この作品は総花的なイメージの乱舞に拡散していたかもしれない。強引な展開にリアルさを与える力には脱帽する。個性的なキャステイングだが、ラヴィニア役のローラ・フレイザーが鮮烈に印象に残った。まずタイタスの従順な娘として可憐な美しさを見せる。やがて、彼女は強姦され、舌を抜かれ、両手首を切り落とされて、そこに小枝を刺される。血を吐きながら無言で嘆く悲壮な姿は、痙攣的な美しさに満ちていた。文句なく残酷美と呼べるのは、このシーンくらいだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0188「シュリ」

 「シュリ」(カン・ジェギュ監督、1999年)は、インパクトがあった。冒頭の北朝鮮での特殊工作員の訓練シーンは、息を飲むほどに壮絶だ。韓国、北朝鮮の緊張関係、民族分断という現実の裏づけがあるだけに、リアリティは痛いほど。北朝鮮の工作員を人間として描いていたのも共感できた。そして、スパイと情報部員の悲劇的な恋が最大の効果を発揮している。ラストのキャロル・キッドが歌う「When I Dream」は、心に染みた。
 ハン・ソッキュは「8月のクリスマス」(ホ・ジノ監督)とは180度違う硬派の男を演じきっていて見事。キム・ユンジンも苦悩をうまく表現していた。編集も音響も非常に切れが良い。多くの映画評は絶賛している。傑作なのは認める。ただ、液体爆弾CTXの原理があまりにもお粗末であったり、情報部員としてはかなり不用意な行動が目立つなど、娯楽作としても疑問な点はある。しかし、ハリウッド映画に負けない娯楽作をつくろうというカン・ジェギュ監督の意気込みが全編から伝わってくる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0187「とらばいゆ」

   「とらばいゆ」(大谷健太郎監督、2001年)は、女流棋士の姉妹と、その夫と恋人の4人が繰り広げる恋愛劇。バトル・トークがすごい。単純と言えば、単純なストーリーだが、2時間、片時も飽きることはなかった。大きな事件があるわけではないが、日常的な男女のいさかいが生々しく、等身大の悩みが伝わってくる。双方がもがき苦しみながら、関係が泥沼になっていく過程は、なかなかリアルに描けないものだが、見事なまでに共感できた。スキのない優れた脚本だと思う。
 まず瀬戸朝香の演技力に驚いた。スランプに陥り、夫に八つ当たりしまくる麻美の迫力は凄まじい。それを受け止める夫役の塚本晋也も、芯がありながらひょうひょうとしたキャラクターが自然だ。妹役の市川実日子は、なかなかの存在感。恋人役の村上淳は、良い雰囲気を醸し出していた。優れた脚本を映像的に支えた美術の素晴らしさも評価したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0186「秘密と嘘」

 「秘密と嘘」(1996年)の監督と脚本はマイク・リー。 養女が母親の死をきっかけに、実の母親を探すというストーリーを基本にしながら、登場するさまざまな人たちの傷に満ちた生きざまと屈折した人間関係が、さりげなく、しかし的確に描かれる。さらに、写真家モーリスが撮影する多くの人々の表情としぐさからも、多彩な人生を感じ取ることができる。数秒間の凝縮されたショットの連続は、見事というほかない。
 一人ひとりが絶品の演技をみせているが、シンシア・パーリー役ブレンダ・ブレッシンの熱演は、群を抜いていた。実の子供と初めて会ったコーヒーショップでの9分間は、名場面として記憶されていくだろう。何もかもが丸く収まるハッピーエンドーは許せるとしても、シンシアが庭で2人の娘を前にしていう言葉「人生って、いいわね」は、何とかならなかったものか。せめて「風が気持ちいいわ」くらいにしてほしかった。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

■0185「発狂する唇」

 佐々木浩久監督の「発狂する唇」(1999年)。内容が決まる前に決定していたという「発狂する唇」という題名からして、かなりいかがわしい。全編通じてとんでもなく無責任なエロ・グロ・ナンセンス映画。神経を逆撫でするようなシーンが畳み掛けるように続く。父が死刑になり、兄も女子高生連続殺人事件の容疑者として追われている家族。マスコミ、近隣住民、 刑事から嫌がらせを受けている。なんともシリアスな設定。しかし突然三輪ひとみが歌謡曲を歌い、霊能力者が家に現われたあたりから、すべてが狂い始める。刺激的で面白ければそれでいいという佐々木浩久監督の信念が貫かれている。ただ、ストーリーは猛烈に過激だが、興行的な配慮などから過剰な表現は巧みに避けている。その冷静さが、この作品からカルト的なパワーを奪っているのは否定できない。
 この作品の前半は美少女アイドルいたぶりである。その点、三輪ひとみは格好の対象だろう。手から血を流して包帯するシーン、家族の悲劇に苦悩するシーン、母親や姉に押さえられて死体に犯されるシーン、なかなかのサービス精神である。そして後半、彼女が連続殺人事件の真犯人であることが明かされる。追ってきた遺族たちをカンフー・アクションで倒しながら、愛しあっていた兄とともに殺される。この大どんでん返しには空いた口がふさがなかった。演技は下手でも三輪ひとみのひたむきな姿勢は魅力的だった。阿部覧、大杉漣らの怪演も華を添えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0184「スティル・クレイジー」

 「スティル・クレイジー」(ブライアン・ギブソン監督、1998年)は、「これがロック版フルモンティだ!」という宣伝文句が気に入らなかった。それでも巧みな配役につられて観てしまった。予想通り、イギリスの深刻な失業問題を背景にした辛らつなコメディの「フル・モンティ」とはかなり違う作品だったが、メンバーが個性的で意外に面白かった。1977年、ウィズベックの野外ロック・コンサートで解散したストレンジ・フルーツのバラバラになったメンバーが集まり、バンドを再結成するという実際にも良くある話なのだが、反目しながらまとまっていく過程が、軽妙な会話で巧みに盛り上げられる。そしてお決まりの結末に感動した。
 期待していないと、妙に点が甘くなりがちだが、平均点は超えていると思う。個性的だが社会性に乏しい中年男たちを、女性のカレンが引っ張っていくという設定が、「ロック=男性」となりがちなこの種の作品を豊かにしている。懐かしい1970年風の曲がオリジナルだというのもうれしい。吹き替えなしの歌も迫力があった。そして、最初は死んだと思わせられたブライアンは、後半さっそうと登場し美味しいところをさらってしまった。さすがブルース・ロビンソンである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0183「フル・モンティ」

 「フル・モンティ」(ピーター・カッタネオ監督、1997年)は、イギリスらしいひねりの効いたユーモアに包まれた、なかなかに深刻な物語。失業を通じて、家庭、夫婦関係がきしみ始め、男たちは悩みながらも文字通り裸になることで絆を取り戻していく。相変わらず劇場には女性客が多く、映画のなかと同様に笑い声を響かせていた。しかし私は他人事として笑ってはいられない深刻な失業時代が、日本にも来るのではとの思いが脳裏から離れなかった。
 「トレインスポッティング」でベグビー役を怪演したロバート・カーライルは、失業者役ガズにもはまっている。親権を失いたくないために、仲間を集め男性ストリップを実現しようとするいじらしさが胸をうつ。そしてガズの子ども・ネイサン役のウィリアム・スネープがなんともうまい。あたふたしている大人たちをしり目に物語をぐいぐいひっぱっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0182「アメリカン・ビューティー」

 イギリス演劇界で高く評価されているサム・メンデスの初監督作品「アメリカン・ビューティー」(1999年)。第72回アカデミー賞で作品賞など5部門を受賞した。乾いた皮肉と温かいまなざしが交差する佳作。郊外の新興住宅地に住む42歳の中年男性が、空虚な家庭生活、不毛な仕事に激しい倦怠感を覚え、娘の同級生に恋をする。仕事をやめてアルバイトを始め、好きなものを買いまくり家族の崩壊に拍車がかかるが、周囲の目をよそに彼は生きがいを感じている。妻の浮気、娘の恋などを加えて緊密な展開になっているが、この作品のすごさは、それに深刻な同性愛の問題を絡ませている点だ。自分の同性愛指向を抑圧して厳粛な父親を演じ、銃やナチの食器を収集する屈折した元軍人が登場する。彼が影の主役だ。
 倦怠感にさいなまれる中年男性に感情移入しかけた自分を、途中からは自笑しながら観ていた。登場人物の会話や行動を笑いながら観ていたが、元軍人の人生を想像したとき、今度は笑っている自分を恥じることになった。コミカルでシニカル。この表現がこれほどぴったりくる映画は少ない。ケビン・スペイシーは主演男優賞を取ったが、元軍人役のクリス・クーパーの苦悩に満ちた演技に撃たれた中年男性を狂わすアンジェラ・ヘイズ役のミーナ・スバーリは、妖しい瞳と唇が印象的だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■0181「ザ・パーソナルズ」

 「ザ・パーソナルズ」(伊比恵子監督、1998年)は、ニューヨーク大大学院の卒業制作として仕上げた作品だが、いきなり1999年アメリカ・アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞短編部門でオスカーを獲得した。ニューヨークでアマチュア劇団をつくるユダヤ系米国人の70歳、80歳を取材。新聞に「交際希望」の広告を出す高齢者をテーマにした公演を準備するサークルのメンバーに。性体験など率直な質問が繰り返され、それぞれの個性と孤独が浮き彫りになっていく。「お年寄りたちのユーモアと率直さのおかげで映画ができた。出会えて幸運だったと思っている」と伊比監督は話していた。
 記録者と当事者。両者の信頼感と距離感の絶妙なバランスが、素晴らしいドキュメンタリー作品を生み出した。高齢者たちは、なんとも率直に、ときにユーモラスに性体験や人生の悩みを語る。密度の濃いテーマを可能な限り凝縮しながら、息苦しさを感じさせない編集のセンスも高く評価したい。そして、高齢者の肉声をすくい上げるだけでなく、終盤では、劇団への公的な援助が突然カットされるという社会政策の問題点も静かに指摘している。人生と社会を同時に考えさせる心憎いばかりの配慮だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年2月 | トップページ | 2005年4月 »