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■0180「耳をすませば」

 近藤喜文監督のアニメ「耳をすませば」は、14歳の月島雫と15歳の天沢聖司の純愛ストーリーだ。もう手放しの純愛で、あくまで健やかな結末。ふたりの前向きの生き方とそれを認める大人たち。出来すぎているといえば、それまでなんだが、細部が実にきめ細かく描かれていて、ブタネコをはじめ魅力的な脇役も活躍し、飽きさせない。近藤喜文監督の間がいい。宮崎駿より百分の二ほど長い。それが余韻になる。宮崎駿は、この作品を自分を自分の舞台の主人公にする事を諦めがちな若い人達への挑発と言っている。主人公は恋愛を通じて、自分自身と向き合う。自分自身に「耳をすます」。自分を捨てるために聞くのではなく、自分と向き合うために聞く。そう考えるとなかなか手がこんでいる。

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■0179「ベント」

 ナチス・ドイツによる同性愛者虐殺を取り上げ、世界中で反響を巻き起こした戯曲の映画化「ベント」(1997年)。舞台と映画では登場人物との距離の取り方が違う。舞台監督に演出をゆだねたことを評価する声が目立つが、中途半端なスタイルになったように思う。出だしのゲイパーティの雰囲気は的確だったが、徐々にペースが乱れ、後半の演出は単色過ぎて男どおしの愛の深まりが十分に伝わっていない。
 そばにいながら互いの身体に触れることなく愛し合うというシーンは、舞台ならば観客を引き付けることが可能だろうが、映画では過酷な状況を丹念に積み重ねていかなければどうしてもわざとらしさが漂ってしまう。また周囲の人たちを丁寧に描かなくては、主人公たちの苦悩も深く響いてこない。エンドロールのミック・ジャガーの歌を聞きながら、癒しがたい物足りなさに耐えた。

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■0178「ニル・バイ・マウス」

 ゲイリー・オールドマン入魂のデビュー作「ニル・バイ・マウス」(1997年)。自らが育ったサウスロンドンでロケーションし、ほろ苦いユーモアに包みながら、下町の過酷な生活を妥協のない暴力シーンとともに描き切った。 自然光を生かした酒場のシーンをはじめ、あたかも同じ空気を吸っているように感じさせる映像が観る者を引き寄せる。監督がどっぷりと映画の中に入り込みながら、それでもあやうい距離を保っているという離れ業をみせてくれた。
 麻薬中毒、家庭内暴力、アルコール依存症。各々の場面に監督の愛着と憎悪が漂う。やりきれない日常をすえた映像にしっかりと定着させた努力は認める。しかし夫のリアルな暴力のあとに、結局は家族の再生という「救済」が用意されている点は、立ち止まって考えてみる必要があるだろう。これを「愛」とみるか「生活のため」と見るか。単純に答えは出ない。しかし、監督にとっての「癒し」が込められていることは否定できないと思う。

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■0177「クラム」

 1960年代のアンダーグラウンド・カルチャーを築いたCOMIX作家ロバート・クラムのドキュメンタリー「クラム」(1994年)。普通ならヒッピー文化など当時の社会現象との関係、検閲との闘いを中心に構成しがちだが、クラムと25年間つきあってきた監督は、社会に適合できずにいる彼の家族に焦点を当てる。クラムの飄々とした表情の裏に隠された、アメリカ社会への激しい憎悪の原点が明らかにされていく。
 冒頭、クラムは「描かないでいると気が狂ってしまう。描くことは身体に染みついた習性、兄の影響なんだ」と語る。鬱病で家に閉じこもり、カントとヘーゲルしか読まない兄チャールズ。少年期の兄弟関係が、クラムの屈折を決定したことが兄との会話の中で見えてくる。彼が曲がりなりにも社会に出ていけたのは、憎悪を漫画として描きつづけることができたからだろう。最後にクラムは、兄から受けた世界から切り離されているという深い感情に触れ「僕はこの感情が好きだ」と話す。そして、兄がこの映画の撮影後に自殺したというクレジットを見て、衝撃を受けた。心を閉ざしたまま死んでいったチャールズの痛みを思い、心が押つぶされそうになった。
 「黒人の心臓の缶詰」に代表される人種差別。「首のないDevil Girl」に代表される女性差別。クラムのあくの強いコミックは確かに差別的だ。免罪は出来ない。しかしそれは社会の差別を映し出す鏡といえるだろう。彼の作品はいつでも社会の本音を暴きだし笑いとばしてきた。その傍若無人さは通常の「風刺」よりも、厄介な毒だ。

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■0176「富江」

 漫画「富江」は、伊藤潤ニの代表作というだけでなく、日本のモダンホラーの高い水準を示す傑作といえる。彼の並外れた画力は、奔放な奇想を見事に現実化する。「富江」の映画化は待ち望んでいたものの、日本の映画では再生や変身の大掛かりなCG化は望むべくもなく、無惨な結果になることを恐れてもいた。しかし及川中監督は、原作のおどろおどろしさを残しつつも特撮を多用せず、思春期の少女たちの愛と憎しみに焦点を当てて、荒削りながらまずまずのレベルでまとめあげた。
 富江の友人・泉沢月子役中村麻美は、「ファザー・ファッカー」から俳優として予想以上に成長していた。ときに緊張が薄れるが、ヒロインにふさわしい存在感がある。富江役の菅野美穂は、伊藤潤ニの希望だそう。振幅の大きな演技はさすがだが、18歳にしてはやや年を取った。洞口依子ら脇を固める配役は納得のいく人選。鑑識役で伊藤潤ニ本人が出演しているのも嬉しい。

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■0175「ウインター・ゲスト」

 俳優アラン・リックマンの監督第1作品「ウインター・ゲスト」(1997年)は、静けさに満ちている。物語としては、ほとんど何も起こらない。しかし、人々が出会うことで人の心が変わっていく。断片的な会話に深い味わいがあり、それがスコットランドの冷え冷えとしながら清清しい風景とマッチして、珠玉の作品となっている。
 凍り付いた海が幻想的で美しい。ラストで氷の海を歩くトムが話す「氷の民」という言葉が、心に響く。死と希望。氷の海の二重性。その凍てついた海のシーンがCGだと、パンフレットを読むまで全く気が付かなかった。これ見よがしのCGのオンパレードではなく、こうしたCGの使い方が映画の可能性を広げていくのだろう。

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■0174「死の棘」

 「死の棘」(小栗康平監督)は、1990年のカンヌ国際映画祭で、グランプリと並ぶ大 賞に輝いた。繊細な映像表現の独創性が評価されたのだと思う。しかし、私はストイッ クになりすぎて、インパクトが弱くなったように感じた。「泥の河」「伽椰子のために」で、人間の生きていく痛みを寡黙な映像に込め、観終わったあとにズシリとした感動を残 したが、この作品は違和感が残った。「死の棘」は映画化が不可能と言われてきた島尾敏雄 の代表作。私は、日本戦後長編小説のベスト5に入る名作だと思う。内部に崩れていく夫 「トシオ」と外部に振れていく妻「ミホ」。2人の関係が会話のズレを繰り返しながら、 亀裂を生み、激烈なドラマに発展していく。挿入される奄美の自然描写は、観る者に刺さってくるほどに美しい。しかし主人公の 演技の振幅が狭すぎるので、自然描写との緊張関係が生きてこない。むしろトシオの特攻 隊帰りという戦争の傷と、ミホの背後に広がる奄美の文化と巫女性を前面に出したほうが 映画的だった。

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■0173「マン・オン・ザ・ムーン」

 「マン・オン・ザ・ムーン」(ミロシュ・フォアマン監督)は、35歳でこの世を去ったアメリカの過激な天才コメディアン・アンディ・カフマンの生涯を描いた作品。ミロシュ・フォアマン監督は、出だしからエンドタイトルを始めるというカフマン顔負けの演出を見せる。ほとんど寺山修司のノリだ。その後は、彼の成功と挫折、そして死期が近いことを自覚したカレが仕組んだ念願だったカーネギーホールの華やかなショー、そして荘厳と呼びたくなるような葬儀までを一気に見せる。涙でスクリーンが見えなくなるほど泣いたことを思い出す。ラストは、一捻りして、またまたカフマンらしい終わり方だった。
 アンディ・カフマンが、今も多くのコメディアン、俳優に影響を与え、不滅の輝きを放っているように、ジム・キャリーは、この作品とともに生き続けるに違いない。いつもの押し付けがましい演技ではなく、カフマンに内面から近付こうとする姿勢が、見違えるような名演技となって映画を輝かせている。ともに1月17日生まれというだけでなく、二人が映画という奇跡の中で共演しているように見えた。脇役も曲者ぞろい。多くの本人がカメオ出演して花を添えている。

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■0172「グリーンマイル」

 大人気作品「グリーンマイル」(フランク・ダラボン監督)は確かに泣けた。被害者の少女を救おうとした黒人が殺人犯として処刑される。死刑の意味を問い返すという点では、「デッドマン・ウォーキング」(ティム・ロビンス監督)以上にインパクトがある。しかし、物語が次第に寓話化されていくので、差別や死刑問題という重いテーマからは離れてしまう。病気を直し死んだネズミを生き返らせる力を持つジョン・コーフィは、その力を誇ることなく、世界中に悪意に満ちた犯罪がまん延してることに心を痛め、生きることを断念し死刑を願う。彼が電気いすで処刑されるシーンを涙なしで見ることのできる人は少ないだろう。目をそむけてきた現実を突き付けられ、心の深いところが揺さぶられる。
 物語は緊密で、俳優も演技派ぞろい。ただ、善人と悪人が整然と分けられ、悪人は滅んでいくというのは安易すぎないだろうか。卑劣きわまりない看守パーシー・ウェットモア、良心のカケラもない犯罪者ウィリアム“ワイルド・ビル”ウォートン。この二人ほど救いようのない悪人は近年珍しい。世界にまん延する悪の問題に切り込みながら、単純に人を区分してしまったことで、テーマが紋切り型になったのは否めない。その方が分かりやすいのは確かだが。そして最後に示された秘密は、私には付け足しにしか思えなかった。トム・ハンクスは確かにうまいが、真の主役はマイケル・クラーク・ダンカンだ。あの涙に満ちた瞳が切ない。

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■0171「シコふんじゃった」

 周防正行監督の「シコふんじゃった」は、肉体と肉体が激しくぶつかり合う学生相撲を テーマにした映画。若貴ブームのはるか以前から相撲に注目したセンスはさすがだった。ストーリーは、小津流の映像でパンクな坊さんを描いた「ファンシー・ダンス」以上に洗練されている。女性が土俵に上って相撲してしまったり、キリスト者が十字を切ったり、民放テレビ局が取材したりと、現在の閉鎖的な国技相撲を解き放とうとした、さまざまな狙いも成功したと思う。竹中直人は、土俵に上がると緊張して下痢になる古株を、マンガチックに好演した。

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■0170「陰∞隠輪花」

 柏尾和直監督のアニメ「陰∞隠輪花」(15分/1998年)は、人間の意識と無意識の交錯、虚と実、男と女、人工と自然、破壊と構築など対のイメージがもつれあい、逆転する。東洋的な世界観を感じるものの、ブラザーズ・クエイの影響も濃厚だ。それを必死に自分のものにし、独自な表現を模索している。アニメに賭ける情熱が響いてくる。茶道の道具などを持ち込むなど、仕掛けも手が込んでいる。

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■0169「ファントム・オブ・パラダイス」

 ブライアン・デ・パルマ監督の「ファントム・オブ・パラダイス」(1975年)は、カルト中のカルト映画と呼べる傑作だ。なんとMTV、パンク・ロックの誕生を予言している。音楽プロデューサーに自作の曲を盗まれ、顔半分と声をつぶされて、恋人までも奪われた哀れな天才作曲家ウィンスローの復讐劇。B級スリラー的ながら、豪華なロック・ミュージカルである。ストーリーはスピーディーでテンポがいい。不気味にしてキッチュな魅力。「オペラ座の怪人」のロック・ミュージカル版と言われているが、この本歌取りは、見事に本歌を超えている。

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■0168「54 」

「54 」は、マーク・クリストファー監督の長編映画デビュー作。1977年4月26日、ニューヨーク西54丁目にオープンしたディスコスタジオ54。アーティストたちが集まりスキャンダラスな芸術の情報発信源となった。退屈な日々を送ってシェーンは、オーナーのスティーヴ・ルベルの目に留まって入場を許され、やがてバーテンダーに昇格、アイドル的存在に昇りつめる。そして、欲望や夢とその空しさを味わっていく。当時の様子を再現したセットや映像にマッチした懐かしい音楽は心地よいが、ルベル逮捕後の展開は悲しすぎる。確かに派手な「パーティは終った」が、自由な場は形を変えて生み出され続けている。
  ライアン・フィリップは確かに魅力的だが、「ベルベット・ゴールドマイン」(トッド・ヘインズ監督)のジョナサン・リース・マイヤーズほどではない。むしろ、スタジオ54のオーナーとして巨万の富みと名声を得ながら満たされない思いを持ち続けるスティーヴ・ルベル役のマイク・マイヤーズの、つかみどころのない演技が印象に残った。ひたむきに歌手を目指すアニタを演じたサルマ・ハエックも美貌とセクシーさに磨きがかかっていた。

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■0167「ベルベット・ゴールドマイン」

「ベルベット・ゴールドマイン」(1998年、トッド・ヘインズ監督)は、1970年代のグラムロックに心からのオマージュを捧げた作品。映画としてのまとまりには難点もあるが、当時の奔放な熱気が伝わってくるサイケデリックな愛すべきフィルムだ。眠っていたグラムの魂が呼び覚まされたような得難い2時間だった。
 少し気の弱い青年役が続いていたユアン・マクレガーだが、「トレインスポッティング」以上に破壊的なロッカー像をたたきつけた。冷えた官能性をただよわせるジョナサン・リース・マイヤーズは、まさに逸材。2人の吹き替えなしの熱唱も見事だ。そしてリンゼイ・ケンプのパフォーマンスが、当時の雰囲気を蘇らせていた。

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■0166「オースティン・パワーズ」


 「オースティン・パワーズ」(1997年、ジェイ・ローチ監督)には、笑いました。おかしすぎる。「バカも休み休みyeah!」というコピーがGOOD!!。「スリーパー」を撮っていたころのウディ・アレンが「007/カジノロワイヤル」のパロディを作ったら、こんな感じか。いや、ここまでのアイデアとパワーは出せなかっただろう。出だしから1960年代を凝縮したテンションの高いシーンで早くもクギ付け状態。IQが低い作品なんて批評があるけれど、お金をかけながら下品なギャグを連発していくポリシーこそ、この作品を粋でお洒落にしている。60年代への回帰ではなく、1960年代と1990年代をともに相対化する視点を持った、なかなか骨のあるコメディだった。
 マイク・マイヤーズは、ノリにノッテいる。オースティン・パワーズとドクター・イーブルの一人二役は、他のアクの強い登場人物の存在をかすませる独壇場。1960年代的な美女たちの中で、バネッサ・ケンジントン役のエリザベス・ハーレーが、1990年代の女性の魅力を発散している。安っぽいアイデアばかり詰め込んでいるように見えて、映像はなかなかシャープ。撮影監督は、なんと「ロスト・ハイウェイ」「スクリーム」のピーター・デミングだった。

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■0165「ワイルド・スモーカーズ」


 「ワイルド・スモーカーズ」(1998年、スティーブン・ギレンホール監督)は、マリファナをめぐる血なまぐさい殺人事件から始まるが、物語はちぐはぐなコメディタッチで進んでいく。どこか「飛んじゃってる」主人公たちが繰り広げるドタバタ劇を追いながら、マフィアと地域コミュニティの対立というマジなテーマが浮かび上がる仕掛けだ。でも深刻ぶらずに終始なごんだ香りが包む。マリファナ文化に詳しくなくても十分に楽しめるが、知っていればもっと笑えるはず。
 ヒップな作品だが、キャストも「極上」。個性派俳優が次から次へと登場する。ビリー・ボブ・ソーントン、ライアン・フィリップ、ハンク・アザリアにケリー・リンチが絡むのだから嬉しくなってしまう。そしてジョン・ボン・ジョヴィも良い味出している。皆楽しんで演じているのが伝わってくる。1981年に構想した脚本は、多くの出会いに支えられて、最高にハッピーな映画に仕上がった。そのこと自体、かなり幸運なことだ。

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■0164「私家版」

 「私家版」(1996年、ベルナール・ラップ監督)は、いかにもイギリス的な悪意と典雅を備えた復讐法だ。小説家を断念した編集者のエドワード・ラム(テレンス・スタンプ)は、ふとしたきっかけでかつての恋人を自殺に追い込んだ人物が、身近な流行作家であることを発見。別の作家の偽りの「私家版」を巧妙に作り、彼の新作がその本からの盗作であるようにみせかけて、彼を自殺に向かわせる。テレンス・スタンプは、無言で淡々と準備を進める男の孤独な情念を表現することに成功している。
 ラムにとって、流行作家への憎悪は最大限にまで増幅されたはずだ。恋人の自殺の原因であり、その自殺を機に彼は小説を書くことをやめた。流行作家は、くだらない作品ばかりを書きながら人気がある。真相を知るきっかけになった流行作家の作品は、素晴らしい出来栄だった。しかし小説の中では真実は歪められていた。さらに強姦したことを反省していない。創作のきっかけになったと喜んでいるー。復讐を決意するのに十分な条件がそろった。そして復讐は完全犯罪として成功する。ラムに同情し、一緒に成功を喜びそうになるが、彼の復讐には小説家になれなかった者の小説家への嫉妬も含まれていたのではないか。その辺りは、シャーロック・ホームズにでも、鮮やかに解いてもらいたい。

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■0163「スリング・ブレイド」

 「スリング・ブレイド」(1996年)は、ビリー・ボブ・ソーントンの監督・脚本・主演作品。アカデミー脚色賞に輝いた。てらいのないカメラワーク。味わいぶかい音楽。細部を積み重ねていく正攻法の展開。そして安易な肯定も否定も受け付けないラストの重み。素晴らしい。久しぶりに物語を観たという感慨に浸っていた。ここには、悲しみを背負った生身の人間がいる。地味だが映画の醍醐味を味わえる作品だ。

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■0162「私の20世紀」

 1990年6月にレイトショーで観たハンガリー映画「私の20世紀」(1989年、イルディゴ・エニエディ監督)は、私にとって格別な作品だ。 不思議な柔らかさに包まれた映像。ゆったりとした呼吸が別世界に連れていってくれる。 ドロサ・セグダの一人三役が素晴らしい。映画パンフレットも、凝りに凝っていた。
 始めに1880年のエジソン社で発明・製造された炭素線電球宣伝の華やかなイルミネーション・パレードの様子がまばゆい光とともに写し出される。時を同じくして星降る夜のブダペストで主人公・双児姉妹が産声をあげる。この二人は別れ別れとなって数奇な運命をたどり、最後に再会する。その過程でさまざまな情景が描かれ、忌わしい20世紀の予感とともに作品は静かに閉じる。

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■0161「ブルースチール」

 キャスリン・ビグロー監督の「ブルースチール」(1990年)は、ガンマニアにはたまらない映画だ。しかし、それだけにとどまらない。鉱物的美学に基づいた映像が、とても新鮮。ちょっとレニ・リーフェンシュタールを連想させる感覚。ヒロインも、まさにスチールのように美しい。そしてブルーを基調にしたニューヨークの夜景が魅力的。銃の官能をこれほど奇麗に撮る女性監督は少ないだろう。脚本も、奇妙な点はあるがなかなか良くできていた。

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■0160「新世紀エヴァンゲリオン」

 劇場版「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明監督)は、「伝説巨神イデオン」のように、劇場版でTV版の決着をつけようとした。そもそも、それが間違いだった。確かに時間をかけた分、アニメとしての仕上がりは格段に素晴しいが、作品としては力のないものになったのではないか。性的妄想が肥大化した劇場版の人類補完計画よりも、不気味なシーンで終るTV版の破綻した内容の方が、切実感があった。
 しかし作家性を全面に打ち出したアニメが立て続けに劇場公開されたという意義は大きい。一人の人間のぎりぎりの問いかけこそが、作品を生きたものにできる。ただし、徹底的に差異を解消しようという庵野秀明の願いは、明確に批判しておく必要がある。劇場版では、精神の危機が呼び込む神話、神秘主義の危険性への配慮も失われている。 過去のアニメの記憶をまぜあわせ、それに思春期の妄想を接ぎ木した庵野秀明は、自己を相対化できず真情を吐露できずにいた若者たちの得難い「依代」となった。

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■0159「7/25」

 「7/25」(早川渉監督)は、1999年カンヌ映画祭国際批評家週間正式出品。絶滅寸前のホシジマカエデを研究している植物学者、チエロ職人、若い探偵、毎月25日に100円ショップで万引きする女性。この4人が別々の場所で出会い、関係を持ち始める。魅力あるストーリーだ。場面設定と研ぎすまされた会話が素晴らしい。そして、人と人、人と植物が交感する。
 現代的でありながら、古典的な味わい。たぶん人間や自然への信頼が根底にあるからなのだろう。「今のところ新しい芽が出たという報告はない」と言いながら、カエデの若葉をとらえるライトシーンはかすかな希望を提示している。

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■0158「ボンベイ」

 「ボンベイ」(マニ・ラトナム監督)は、監督の自宅に爆弾が投げ込まれ、各地で上映禁止になるほどの衝撃を与えた傑作だ。宗教の違いによる対立の不毛さを告発した社会派映画。インド娯楽映画の文法に沿いながら、しかもその明るさが後半の悲惨さをより鮮烈にしている。実際に起こったアヨディア事件に端を発した暴動、虐殺の血なまぐさい迫力に、言葉を失っていた。
 イスラムとヒンズーの対立に引き裂かれそうになった男女がボンベイに移って生活を始める。孫が出来たことで、両家の諍いも治まりつつあった時、街を焼きつくす暴動が発生する。二人の純真な恋愛から、一気に社会問題に迫る骨太な展開。水と火の象徴的映像。マニラトナム監督は多大な影響を受けた師として黒澤明を挙げている。ここにもまた、黒澤の映画文法が息づいていた。

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■0157「ウンタマギルー」

 冷え込んだ日々が続いている。そんなとき、たっぷり夏の大気をためた「ウンタマギルー」(高嶺剛監督)を思い出す。全編琉球語で語られる沖縄映画。奥深さを秘めた独特なブルーを基調に、風土から立ちのぼる文法によって映像化している。ウンタマ森で超能力を身につけるギルー青年は、空を飛ぶ術を持っているが、その浮遊はぼわぼわしていてスピードがない。宮崎駿監督の作品とは対照的だ。荒唐無稽に感じられるストーリーも、確かな文化的背景に支えられて私たちを撃つ。最近はエスニックブームという形で異文化が商品化されている が、このわい雑で暴力的な力に満ちた映画は、その枠を超える異質性を見せている。豚の化 身・マリー役の青山知可子の愚鈍さも、収穫だろう。

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■0156「ダンス・ウイズ・ウルブス」

 「ダンス・ウイズ・ウルブス」(ケビン・コスナー製作・監督・主演)は、一部の展開に難点はあるものの、その後の同種映画に確実に影響を与えた記念碑的な作品だった。アメリカ映画は、今も他者を描くことを苦手としている。この作品も、高い壁の越し方がスムーズすぎるという感じはある。しかし、スー族の側から白人の醜さを描くことには、ほぼ成功している。
 コスナーの映像は、真正直な視線で雄大な大地、動物、人間を写す。前半は、ゆったりとしたペースが多少気になるが、バーファローの大群が登場する圧倒的なシーンの後は 、ぐいぐいと引きずりこまれる。スー族になったためにスー族のもとを去らねばならない例外的な白人の生きる痛みが伝ってくるラストもいい。

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■0155「コルチャック先生」

 アンジェイ・ワイダ監督の「コルチャック先生」は、なんとも言えない味わいを残す名作だ。白黒 の落ちついた、それでいて艶のある映像。場面を的確に盛り上げる音楽。一切の美化を遠ざけ、静かに淡々と描くことで、歴史的な事実の重みが、どれほど心の奥に響くことか。ラストの幻想シーンは、悲惨な否定しえない現実に裏打ちされていなければ、単なる逃 避になるが、ワイダはそこに表面的な歴史を超えたリアリティを込めることに成功している。

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■0154「勝手に死なせて!」

 1995年12月28日のさっぽろ映画祭で上映された「勝手に死なせて!」(水谷俊之監督)は、海外赴任で事故死した夫の遺体を巡って、妻と親族たちと謎の女とが争奪戦を繰り広げる。荒唐無稽のようでリアルな展開。日本の深刻な現状を踏まえた上で、死をテーマにした超ドタバタコメディ。ここまで遺体をもてあそびつつ、最後に親子の絆を演出する大胆さは、まれだ。アルモドバルもびっくり。1995年邦画ベスト1になってもおかしくない傑作だ。名取裕子が怪演している。遺体役の風間杜夫にも拍手を送りたい。

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■0153「ドゥ・ザ・ライト・シング」

 スパイク・リー監督は、数々の傑作を生み出しているが、脚本・監督・主演の「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年)は、その中でも出色の出来だ。アメリカの重大な問題意識を提示し、黒人、イタリア人、韓国人らの交錯した差別をリアルに描いた話題作。リズミカルな乗りとパワー、そして冷静な構成は素晴らしい。さまざまな問題が衝撃のラストシーンへとつながっていく。最後にキング牧師とマルカムXの言葉が引用されるのもすごい。

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