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■0152「イル・ポスティーノ」

 「イル・ポスティーノ」(イタリア=フランス合作、マイケル・ラドフォード監督)はイタリアの魅力が詰まった作品だ。チリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダに、詩を教えられた郵便配達人マリオが、憧れたベアトリーチェと結婚し、社会にも目を向けていく。ベアトリーチェ役のマリア・グラッツィア・クチノッタは美しく輝いている。女性の描き方は、やや男の身勝手な気がするものの、ナポリの美しい風景の中で輝き始める言葉の力を味わった。
 マリオ役のマッシモ・トロイージが撮影終了の翌日に41歳で急死している。トロイージは製作にも深くかかわった。

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■0151「ガキ帝国」

 1981年製作の「ガキ帝国」(井筒和幸監督)は、先駆的な作品だった。朝鮮語のセリフに日本語字幕が付く。1967年の大阪を舞台に抗争を続ける不良グループに戦いを挑む三人の少年を描いた。当時の大阪の熱気が伝わってくるような力のある映像。不良高校生の日常が痛快に活写される。島田伸介・松本竜介のコンビに趙方豪がからむ。若き島田紳助の高校生ヤンキー役は、そのままの地と思えるほど自然だ。そして升毅(ます・たけし)の存在感が忘れられない。

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■0150「ファンタジア/2000」

 息を飲む映像体験とは、こういう作品をさす言葉だろう。「ファンタジア/2000」は、ディズニーアニメの底力を見せつける作品である。その多彩さは言うに及ばず、大胆なアイデアを躍動感あふれる作品に仕上げる力量。この魅力が、最近の長篇作品に十分に生かされていないのは、本当に残念だ。
 ベートーヴェン の「交響曲第5番」で奔放な映像絵巻は幕を開ける。そしてオットリーノ・レスピーギの作曲の「交響詩ローマの松」で、めくるめくようなクジラの群舞が展開する。その想像力の広がりと美しさに絶句する。ガーシュイン 「ラプソディー・イン・ブルー」、ショスタコーヴィチ「ピアノ協奏曲第2番」と異なるテイストの絵柄を見せて、サン=サーンス「動物の謝肉祭」ではヨーヨーするフラミンゴの踊りというお得意のギャグで笑いを誘う。ポール・デュカ「魔法使いの弟子」は旧作「ファンタジア」のミッキーマウスがデジタルでよみがえり、エドワード・エルガー「威風堂々」ではドナルドダックが活躍する。そして、ストラヴィンスキー「火の鳥」の壮大な死と生のドラマで締めくくられる。奇跡のような映像体験。あの感動は、本当に希有の体験だ。

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■0149「愛の嵐」

 ナチズムに翻弄された男女の愛憎を描いた「愛の嵐」(リリアーナ・カバーニ監督、1973年)。退廃的な官能作品といえば、まずこの映画が思い浮かぶ。ゲットーの元責任者マックスと彼が性の奴隷として調教したユダヤ人のルチア。20年の月日を超えて、倒錯した快楽へと戻っていく2人をダーク・ボガードとシャーロット・ランプリングが演じた。観た当時、かなりの衝撃を受けたことを覚えている。ナチズムへの怒りよりも、人間の欲望の深さをえぐり出したところに、この作品の価値がある。

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■0148「愛のめぐりあい」

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品「愛のめぐりあい」は、監督自身が書いた32編の短・中編小説集の中の4編を映画化したもの。撮影開始後に脳卒中で倒れ、企画は暗礁に乗り上げたが、ヴィム・ヴェンダースを共同監督とすることで、やっと実現した。 さすらう男女の愛の断片を、執拗に描き続ける姿勢は変わらない。しかも、愛しあう姿ではなく、偶然に出会い、迷い、争い、別れる局面に監督の視線は注がれている。端正でありながら開かれている。寓話的でありながら肉感的である。そして、つかみかけた意味は、砂のように手のひらからすり抜けていく。

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■0147「愛の風景」

 「愛の風景」は、男女の辛辣な会話では右に出る者がないイングマル・ベルイマンの脚本を、「ペレ」のビレ・アウグスト監督が、映画化した。ベルイマンの両親を描きながら、 1910年のスウェーデンも描写し、雄大なスケールを持つ。アウグスト監督は、巨匠 の脚本に負けることなく、十分な距離感を保ち、独自の映像感覚を発揮していた。
 ベル イマン特有の裸形の感情のぶつかり合いを静かに包んでいる。両親は対立しつつも妥協し 、結婚を誓う。しかし波乱に満ちた生活になることは十二分に予感できる。そして母親の お腹の中には、ベルイマンがいる。なかなか複雑なハッピーエンドだ。

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■0146「愛の地獄」

 「愛の地獄」(クロード・シャブロル監督、1994年)は、美しい妻に対する夫の異常な嫉妬をめぐる心理サスペンス。粘ついた感触が残る嫉妬劇だ。「恐怖の報酬」「悪魔のような女」で1950年代フランスを代表するサスペンス映画作家アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督が1964年に中途で製作を放棄した脚本を基に、クロード・シャブロルが時代を現代に置き換えて脚色・監督した。出演は「愛を弾く女」のエマニュエル・ベアール、「プレタポルテ」「フレンチ・キス」のフランソワ・クリュゼら。
 2人の嫉妬が相乗効果で高まり、自然に狂気が忍び込む。この日常感がたまらない。名匠のしぶい演出が楽しめる、余韻に満ちた作品だ。

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■0145「愛の破片」

 ヴェルナー・シュレーター監督の「愛の破片」は、愛と死という痛苦な問いが、オペラに癒されていく幸せな作品だ。身体に折り畳んでいた感受性の翼が広がり、音を呼吸し始める。音楽は世界の外から響いているように感じる。次々と歌われる有名な曲、歌声に包まれながら音楽に見放されていなかった自分を発見する。女優のイザベル・ユペールが、モーツアルトを歌い出す心地よい驚きも味わうことができた。
 シュレーター監督は歌手の声にこだわり続けている。映像は喜びと遊びに満ち、肩に力が入っていない。ただ、監督自らが「多くの友人をエイズで亡くした」とさりげなく語るシーンに、シュレーターの悲しみが込められていた。

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■0144「愛の悪魔 〜フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」

 独創的な絵画の地平を切り開いたフランシス・ベイコンの伝記的作品「愛の悪魔 〜フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」。ベイコンのアーティストとしての残酷なまでのエゴイズムを無慈悲に描いていた。ベイコン絵画の痙攣的イメージを律儀に取り込み、史実を丹念にたどりながら構成しているのだが、あまりに遊びがなく、ときに息苦しく感じた。坂本龍一の無機質な音楽は、スタイリッシュな映像をさらに美しく凍らせていた。
 画家のイメージに沿う形でダイレクトに迫り、それなりの効果を上げている。しかし、画家との格闘が感じられず、創作の内面にまでは届いていない。ただ、名優サー・デレク・ジャコビを得て、ベイコンの多面的な性格を浮かび上がらせることには成功した。

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■0143「隣人は静かに笑う」

 「隣人は静かに笑う」(マーク・ペリントン監督、1998年)のどんでん返しの見事さは、格別だ。「やられた」という快感の後に、ハリウッド作品には珍しい後味の悪い、現実を直視させるような重たい問いが残される。本筋でしっかりとヒントを示し続けながら、予想できない結末に連れていくという離れ業をやってのけた。
 FBIのテロ捜査で妻を殺されたマイケル・ファラデーは、大学でテロリズムの歴史を教えている。安易に自爆による単独犯行と決めつける警察と、それで安心してしまう世論に鋭い批判を投げ掛け、真相に迫ろうとしている。怪我をした隣人の子供を助けたことを契機に、隣家族との交際を始めるが、隣人が偽名を使っており、かつて爆弾犯として逮捕されたという経歴を隠していることを突き止める。彼等は新しいテロを計画しているらしい...。そして、人間の心理を巧みに利用した企みが動き出す。テロ事件が続く限り長く記憶に残る、サスペンス・スリラーの結末だ。

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■0142「シュウシュウの季節」

  女優ジョアン・チェンの監督デビュー作「シュウシュウの季節」(1998年)。広大なチベットの自然の中で、中国の文化大革命に翻弄された少女の物語。革命を信じた純粋な少女が、故郷に帰るために共産党官僚に進んで身をまかせるようになる姿は、正視できないほど残酷だ。中国政府の許可を得ずに撮影を強行し、作品を完成させた執念は、「ポーラX」(レオス・カラックス監督)に匹敵するものがある。
 なんといってもシュウシュウ役のルー・ルーの可憐さが忘れがたい。前半、あまりにも可憐なので、後半の変化がとてつもなく痛々しい。自然の変化と小道具をうまく使いながら、寡黙に簡潔に描かれた悲恋。それにしても、去勢されたラオジン以外の男性たちは、獣のように描かれている。共産党批判と男性批判が重なっているのが、結構こたえた。

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■0141「ぼくの国、パパの国」

 「ぼくの国、パパの国」(1999年)は貴重な映画だ。原作「eeast is east」は、父がパキスタン人、母がイギリス人の家庭に生まれたアユーヴ・カーンが初めて書いた自伝的な戯曲。最優秀ウエストエンド戯曲賞を受賞するなど絶賛された。アイルランド出身のダミアン・オドネル監督が初長篇で映画化。カンヌ国際映画祭第1回メディア賞を受賞した。パキスタンとイギリス。異文化のきしみを孕んだ家族を、辛らつに、コミカルに描くという困難な課題を克服している。権威をふりかざし暴力をふるう父親。ともすれば悪者にされがちな父親への温かいまなざしが、作品に深みをもたらした。
 末っ子のサジをはじめ、兄弟の個性がきらめく。多兄弟家族の雰囲気が楽しい。そこに文化の違いによる危機が訪れる。父親役のオーム・プリーの熱演も評価するが、何といっても最後にびしっと決めた母親役のリンダ・バセットがうまい。それにしても、あんなに下ネタが満載とは思わなかった。

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■0140「ウェイキング・ライフ」

 「ウェイキング・ライフ」(リチャード・リンクレイター監督・脚本・撮影、2001年)。実写映像にデジタル・ペインティングで加工するという手法による実験的な作品なのだが、たえず揺れている浮遊感のある処理が、夢と現実をテーマにした哲学的な内容と響き合い、不思議な魅力を生み出している。ただしローリング・ストーン誌が「『2001年宇宙の旅』以来のアタマぶっとび映画」と論評するほど斬新な手法とは思わない。
 注目すべき俳優たちが顔をそろえている(とはいっても、実写は見えない)。虚実の中間を漂う映像が催眠的な狙いなのかもしれないが、ペインティング処理がもっと多様な展開をしていると、さらにイメージ豊かなものになったはずだ。思い切って実写に近付く場面と、大胆に改編する場面があってもいい。微妙にセンスの違うアニメーターが、着かず離れず寄せ集まった印象を受ける。もっと奔放であったなら、夢中になったかもしれない。

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■0139「青いパパイヤの香り」

 トラン・アン・ユン監督の「青いパパイヤの香り」(1993年)は、ベトナムとフランスの出会いから生まれた新しい可能性を感じさせる。パリ郊外のセットの中で在仏ベトナム人監督やスタッフたちによってサイゴンが再現された。そして一人の女性の生涯をゆったりとしたリズムで描いていく。快い肌触りの映像とみずみずしい少女の表情。 虫や動物たちへの眼差し。徹底した美意識に支えられた展開は、才能を感じさせる。ただし、美意識によって東洋の家父長的な伝統を結果的に肯定してしまった。後半の凡庸な展開とともに、この点は不満だ。

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■0138「ドライクリーニング」

 「ドライクリーニング」(アンヌ・フォンテーヌ監督、1997年)は、不思議な感触のフランス=スペイン合作映画だった。クリーニングの仕事に職人的なこだわりをみせる完全主義者のジャン=マリ。妻のニコルは夫との仕事に追われ続ける毎日に欲求不満気味。ふと立ち寄ったナイトクラブでショーをしていた美貌の青年が翌日ラメ入りのドレスをクリーニングに出すところから、物語は始まる。ナイトクラブのショーはすくぶるエロティックだが、その後はむしろ淡々と日常を描いていく。その積み重ねが、複雑な三角関係をリアルにした。映画の主人公は青年ロイック・カリュや、彼に溺れるニコルではない。この作品の中心は、自身のバイセクシャル指向に目覚めて葛藤するジャン=マリだ。自分の指向を封じ込める彼の苦悩が映画を紋切り型にしていない。
 ジャン・マリがロイック・カリュを殺した後、ニコルが死体を始末し、二人で歩き続ける寡黙なラストには、ズシリとした衝撃を受けた。ニコルの強さと生活の重みが、画面を染めていく。余韻に満ちた結末。この余韻は長く続く。ナイトクラブの官能、仕事場の慌ただしさ、夫婦の微妙な会話、子供たちのあどけない賑わい。落差のある多彩な映像を鮮やかに組み立てた監督の感性は、柔軟で強靱だ。

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■0137「アルテミシア」

 美術史上初の女流画家として知られるアルテミシア・ジェンティレスキは、1593年7月8日にローマで生まれ、1653年にナポリで亡くなった。「アルテミシア」(アニエス・メルレ監督、1997年)は、絵を学び始めてから伝説のレイプ裁判までを中心とする彼女の半生を、駆け足で描いている。やや表情は乏しいものの若々しい存在感を放つヴァレンティナ・チェルヴィは、描くことへの情熱と好奇心に満ちた17歳のアルテミシアになりきっていた。とても魅力的。波瀾に満ちたストーリーだが、父親のオラーツィオ、恋人のアゴスティーノの描き方が弱い。そのため、物語が平板になった。名優をそろえながら惜しい。
 映画チラシに感心したことを覚えている。チラシ表紙には、アルテミシアが目を閉じて砂浜に横たわる静かなシーンを使っているが、映画を見た後には、そのシーンが驚くほど官能的に輝き始める。ヴァレンティナ・チェルヴィの強い瞳を強調せず、あえてこの場面を採用したスタッフのセンスを評価したい。

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■0136「D坂の殺人事件」

 「D坂の殺人事件」(1998年)は、実相寺昭雄監督の耽美的な世界。計算された構図による映像と紙細工の書き割りによる遊び心が、江戸川乱歩のたくらみを的確に表現している。始まりの15分間のテンションの高さは、観る者を虜にする。まず真田広之の妖しい演技に賛辞を送ろう。自らを緊縛し描写する彼の美しさが、この作品を崇高なものにしている。そして100本以上のピンク映画に出演し監督としての才能も高く評価されている吉行由実の存在感ある演技が、映像に艶を与えている。花崎マユミ役の大家由祐子も驚くばかりの官能の表情をみせる。
 贋作をめぐる殺人事件は、明智小五郎の推理で、鮮やかに解決する。嶋田久作は幅の広い役をこなす俳優に成長した。無駄のない展開で心地よいが、「屋根裏の散歩者」までは健在だった官能的なねちっこさが、今回は乏しかった。それが作品の均整を高めていることは理解できるが、実相寺らしさが薄れたことも否定できないだろう。

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■0135「キラークィーン 舌を巻く女」

 ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭1997のヤング・ファンタスティッ ク・グランプリ候補「KILLER TONGUE」(アルベルト・シアマ監督、1996年)は、なかなか忘れられない映画だ。劇場では「キラークィーン 舌を巻く女」という題で公開され、思わず笑ってしまった。隕石のかけらを飲み込んで、長く凶暴な舌を持つ怪物に変身してしまったキャンディを巡るどたばたSFエロチック犯罪コメディ。スペイン映画の新しい個性かと興味深く観た。キャンディを「バタリアン2」のメリンダ・クラークが演じていたのも面白かった。
 しかしシアマ監督初の劇場用映画は、独創的なアイデアではあるが、コミック・スプラッターの枠にはまりすぎていた。エロス、耽美、ポップ、パンク、クイアなどが溶け合うハイブリッドな感性を、整理しすぎたと思う。安易な結末などにとらわれず、もっと奔放であってほしい。

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■0134「河」

 「河」(ツァイ・ミンリャン監督、1997年)は、台北の寒々とした都市空間を背景に、親子3人のかい離と孤独を淡々と描いている。極めて地域的で日常的なドラマが、やがて現代の悲しみ、苦しみを象徴し始める。汚れきった河、大量の雨漏りといった水の多彩な表情とともに、くすんだ映像は人間の深部を照らし出す。その手法はベルイマンら北欧の映画を思わせるほどだ。ツァイ・ミンリャンは、監督個人の体験を折り込みながら世界に通じる作品を生んだ。
 息子と父親のセクシャリティは揺れている。息子は前半で女友だちとセックスしながら、後半ではゲイ・サウナにやってくる。父親はまがりなりにも夫婦関係を維持しながらゲイ・サウナで孤独を癒している。心が離れていた息子と父親がゲイ・サウナで親子とは知らずに暗闇の中で抱き合うシーンは、グロテスクというよりは孤独な魂が互いを慈しみあう深い美しさに満ちていた。父親が流す涙にしみ込んださまざまな感情。固有のセクシャリティと身体を持つ個に戻らなければ、現代の家族は出会うことができないという切実なメッセージに、全身が揺さぶられた。

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■0133「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」

 「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998年)。長い題名だ。しかし、初めてみた時には「めちゃくちゃ面白い映画」と興奮した。ミュージック・ビデオやコマーシャルで活躍してきたガイ・リッチー監督のデビュー作。スタイリッシュでコミカル。ロンドンの下町で一攫千金を夢見る若者4人。カードで負け、莫大な借金をしてしまう。残された時間は1週間。隣に住む悪党たちのドラッグと金の強奪計画を聞き付け、それを奪おうとする。さまざまな階層の人たちが登場し、スラングと訛りが飛び交い、物語は意地悪く転がっていく。そのズレとハマリ感覚の絶妙さ。
 どたばた劇の末、コミカルに死体の山が出来上がる感覚はタランティーノを連想させるが、ガイ・リッチー監督は、もう数枚悪意のカードを多く持っている。多様な人々がひしめき合う猥雑な下町の犯罪世界に、ユーモアを粧った知的な悪意をしのばせる新しい感覚。ストーリーの見事さに映像のシャープさ、配役、音楽の巧みさが加わり、傑作が生み出された。イギリス映画の活気を象徴する作品だ。

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■0132「ピーピー兄弟」

  「ピーピー兄弟」(藤田芳康監督)は、2002年の夕張映画祭で南俊子賞を受賞している。放送禁止用語だらけで、現状のテレビでは、まず放映できないというのが楽しい。予想以上の深い内容に感激した。「ほんま、ええ話しやなあ」と感じる温かな物語。何といっても脚本がいい。葬儀屋と漫才師という組み合わせが絶妙。ストーリーも人物造形も良く練られている。前半のテレビ批判から後半の人情話に移っていく切り替えがややもたついていたものの、全体としては高い水準にある。
 そして、俳優たちが素晴らしい。みな味わい深い。田中裕子、岸部一徳、香川照之の上手さに、あらためて感心。ヒロイン文江役のみれいゆは、最後は主人公になってしまうほど魅力的。そしてスティーブン・セガールの息子、剣太郎セガールが大阪弁を駆使して巨根ネタの下品なお笑いに挑戦したという点も注目していい。なかなかの存在感だ。イクオ役のぜんじろうも、頑固さと弱さを合わせ持つ兄貴像をリアルにみせている。

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■0131「見出された時」

 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」の最終編「見出された時」を中心に映画化した「見出された時」(ラウル・ルイス監督、1998年)。ハリウッド映画を見なれていると、序盤での「つかみ」の展開に慣れてしまうが、この作品はゆっくりと静かに物語を進めていく。最初はとまどうものの、やがてゆるやかに物語に入り込んでいける。戦争という過酷な状況にありながら、ドラマチックからは程遠い。夢のようにすべてがファンタジック。パッチワークのように時空が自由に断片化している。多くの登場人物が複雑な関係を持ちながら、移ろっていく。説明は少ない。ラウル・ルイス監督が自ら語っているように、原作を知らないと分りづらい。ただ、マルセル自身が失われた時、忘れられた時代を新たに見い出すものとして、芸術の価値を噛み締める結末は、じんわりと感動的で余韻が長く残る。
 キャスティングが、すごすぎる。監督は、貴族に憧れるマルセルの視線を意識した配役だというが、カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアール、マリ=フランス・ピジエと並ぶと、壮観だ。ジョン・マルコヴィッチも屈折したシャルリュス男爵を熱演していた。有名な俳優たちにまぎれてマルセル役に無名の俳優を置く辺りに、監督の優雅な遊びを感じた。

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■0130「わんぱく王子の大蛇退治」

 東映アニメ「わんぱく王子の大蛇退治」(芹川有吾監督、1963年)は、たしか学校の体育館で観た。はらはらする冒険活劇。スサノオがヤマタノオロチと闘うシーンは、忘れられない。動きがなめらかで美しく、物語もしっかりしていた。私に、アニメの面白さと可能性を感じさせた作品。「ゴジラ」などで有名な伊福部昭が音楽を担当していた。ベニス国際映画祭オゼルラ・デ・ブロンド賞を受賞している。

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■0129「ハーベイ・ミルク」

  「ハーベイ・ミルク」(リチャード・シミューセン監督、1984年)のことを、しばしば思い出す。1970年代に、ゲイであることを公表しながらサンフランシスコ市議会議員に当選したハーベイ・ミルクが、同じく公職についていたダン・ホワイトに射殺されるまでを、関係者の証言でつづるドキュメンタリー。ダン・ホワイトは、マイノリティに好意的だった市長とミルクを故意に撃ち殺しながら、裁判ではとても軽い判決を受けた。差別のひどさとともに、映像からはハーベイ・ミルクの人間としての魅力が直接伝わってくる。その柔らかく温かい物腰と語りに、カインドという言葉を思い出した。

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■0128「クルーレス」

 軽めの作品だが、「クルーレス」(1995年)は良かった。エイミー・ヘッカリング監督は、10代の思春期の少年、少女たちを優しく、しかしシビアに見つめながら気持ち良いストーリーにまとめ上げていた。主人公シェール役のアリシア・シルヴァーストーンは、嫌味さがなくてとってもキュート。ビバリーヒルズの上流階級の娘なので、鼻持ちならないところもあるが、それが可愛らしく見えるところが見事。久しぶりにハチャメチャだった高校生時代を思い出す。

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■0127「レナードの朝」

 「レナードの朝」(ペニー・マーシャル監督)は、重いテーマをユーモアで包み、さりげなくしかしきめ細やかに人間を描いていて、共感できた。デ・ニーロ、ウイリアムズの熱演を評価する声が多いが、レナード・ロウの少年時代を演じた子役もたいしたものだった。嗜眠性脳炎患者たちが、パーキンソン氏病の新薬の力で1969年に次々と意識回復するが、ほどなく病状は悪化し再び元の状態に戻る。その後、 他の患者にも薬を投与するが、不思議に1969年のような効果はなかった。この物語は実話。だから こそ「何故1969年なのか}と思わず象徴的な意味を見いだしたくなる。だが、マーシャル監 督は何も語らない。

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■0126「ノーライフキング」

 15年前に観た「ノーライフキング」(市川準監督)は、今でも切実な問いを発している。時代に敏感な市川監督が、子供たちのリアルを描いた。いとうせいこうの小説の映画化というよりも、独立した作品と言ったほうがいい。呪われたファミコンとの闘いというテーマは、子供たちにとってまさにリアルだ。ゲームの世界には神話的な構造が潜んでいる。これに対して、市川監督はファミコンを逃れて「外に出ること」を勧める。しかし、これはリアルな批判なのだろうか。状況の外に出ることは、必ずしも家の外に出ることじゃない。
 ここ10年間でインターネットが普及し、かえって無数の閉じたコミュニティができたという批判がある。しかしインターネットを通じて自由に横断できる可能性が開いていることも間違いのない事実だ。問題は、どう使うかだ。閉塞と横断。この両犠牲に耐えて内側から外に抜ける道こそが、これからのリアルだと思う。

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■0125「セックスと嘘とビデオテープ」

 26歳で監督した1989年カンヌ国際映画祭グランプリ作品「セックスと嘘とビデオテープ」によって有名になったスティーブン・ソダバーグ監督も、すでに40歳を過ぎた。自分のとった行動の影響に責任を持つという意味で、今観ても倫理的な 映画だ。それでいて堅苦しくも押しつけがましくもない。鋭いが上品な会話劇に仕上がっ ている。4人の人間関係が醸しだす余韻に満ちた展開は、ある意味で成熟していた。
 このコミュニケーション回復のドラマは、自立と距離を基調にしているだけにカンヌの 審査委員長・ヴィム・ヴェンダース監督好みの映画といえた。セックスに対する現代的 な神話から解放されている点もいい。人間関係における嘘の微妙な位置、ビデオの両犠牲 が、見事に描かれている。

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■0124「エンジェル・ダスト」

 10年前、地下鉄サリン事件が起こった。その直前に公開された石井聡互監督の10年ぶりの新作「エンジェル・ダスト」は、あの時代を予言していたと思う。前作「逆噴射家族」には物足りなさを感じていたが、その洗練された映像に驚かされた。かつての映像も暴力的に美しかったが、「エンジェル・ダスト」は鉱物的な美しさに満ちている。そして、人々の欲望と不安を呼吸しながら東京が不気味なほど輝いていた。
 かつては外に向かっていた爆発的な力が強力な磁場によってプラズマのように閉じ込められている。そんなキリキリした映像。サイコ・スリラーだからではなく、映像そのものが胃にこたえる。自分が誰かにコントロールされているような違和感は、昔と共通しているが、対処の仕方が成熟した。ラストは、事件が解決したように見せかけて、実は新たな始まりである事を提示している。

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■0123「インタビュー・ウイズ・バンパイア」

 耽美的で美しくブラックなユーモアがある。同性愛的な要素など、従来のバンパイア映画に比べ、新しい世界を切り開いていた。10年前の1月に観た「インタビュー・ウイズ・バンパイア」(ニール・ジョーダン監督、1994年)は、いつまでも心に残っている。当時、予告編がとても良くできていたので期待していたが、予想以上だった。映画館の混雑ぶりもすごかった。レスタト役トム・クルーズの名演ばかりが、強調されるけれど、ルイ役のブラッド・ピットもなかなか。そして、その二人を食ってしまいかねなかったのが、少女バンパイア・クローディア役の若きキルスティン・ダンスト。彼女も、すっかり成長した。永遠に大人になれず何百年も生き続ける子供のバンパイアという発想は、子供を白血病で亡くした原作者アン・ライスの苦しみから生まれたものだった。

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■0122「フェアリーテイル」

 「フェアリーテイル」(チャールズ・スターリッジ監督、1997年)は、たくさんの妖精たちが登場し、美しい風景とともに少女たちが輝き、心温まる結末を迎える。浄化されていくような幸せな気持ちになる。原案のコティングリー妖精事件は、第1次世界大戦によって、無慈悲な大量死に直面した多くの傷付いた人々を慰めたに違いない。心の危機は神秘を引き寄せる。今もまた、そういう時代なのかもしれない。

 エリザベス・アールがとても魅力的。彼女の可憐な美しさが妖精を呼び集めるほど。コナン・ドイル役のピーター・オトゥールら、愛するものを失ってうちひしがれている大人たちの姿も切ない。物語は妖精の存在をめぐる子供と大人の対立から、マスコミの報道による大量の見学者の殺到、妖精たちの退避へと進む。しかし、物語は、意外なほどのハッピーエンドを用意している。癒し系の佳作だ。

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