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■0121「ヘリウッド」

 2004年の大晦日。「千夜千幕」も121回。とっておきのカルト作品を取り上げる。「ヘリウッド」(長嶺高文監督、1982年)は、斎藤とも子、青地公美、羽仁未央の美少女トリオが活躍するSFコメディと、一応は分類されるだろう。しかし、あまりにもトンデモな内容だ。DVDにはなっていない。私はビデオテープを持っている。
地球人の植物化を企む宇宙の悪漢ダンス。地球征服の鍵を握るアップル君。ダンスの地球征服を阻止せよと宇宙大王に命じられたビワノビッチ。聖白麗女学院のナべ島神父。生徒三人で構成している美少女探偵団。農学博士のおたべ教授。彼等が入りみだれて展開される荒唐無稽で下品なストーリー。収拾がつかない。最後に、エキストラを含めた登場人物全員が、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」を合唱する。

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■0120「マインド・ゲーム」

 2004年が暮れようとしている。ことしの映画界は、日本アニメの大きな節目として記憶されるだろう。「イノセンス」「スチームボーイ」「ハウルの動く城」という日本のアニメ3大巨匠の作品が初めて同じ年に公開された記念すべき年。「アップルシード」という新しい試みも光った。CGを取り入れながらセルアニメの質感を生かした冒険が行われた。その代表が湯浅政明監督の「マインド・ゲーム」である。STUDIO4℃が制作した。
 素晴らしくパワフルでどん欲。さまざまなテイストの2D、3D、実写を組み合わせたハイテンション・コラージュ・アニメといえる。アニメ表現の可能性を、根こそぎ持ち込んだ感すらある。それでいて芯が通り、突き抜けた爽快感がある。絶望的な状況の中で前向きに生き抜くというポジティブなメッセージそのままに、ぶっ飛んだアニメとして歴史に残るだろう。

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■0119「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 年末になると、ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思い出す。2000年の暮れ。つまりは20世紀の終わり。自由の国アメリカの現実を暴いた傑作。ドキュメンタリー風の映像とミュージカルシーンの緊張した二重構造で、チェコからアメリカに移民したシングル・マザー・セルマの痛ましい悲劇が描かれる。深々とした裂け目をつないでいるのが、セルマ役のビョークの演技を超えた身ぶりと歌声。アメリカ社会の絶望的現実と人間の尊厳に満ちた希望が、こんな形で映像化されるとは。ハリウッド映画では、けっして到達できない奇跡的な高みが、実現している。
 ミュージカルを愛しつつアメリカミュージカルの浅さ、いいかげんさを認識していたトリアー監督は、思いもかけない方法で、ミュージカルを蘇らせた。これほどまでにミュージカルを生かしながら、既存のミュージカルを批判しえた作品は初めてだ。ミュージカルの国アメリカに移り、ミュージカルの舞台に立つことを夢見ていたセルマは、最も過酷な場面で、その夢を実現する。想像するだに恐ろしいアイデア。そして、打ちのめされるラストシーンが、ひとつの希望の形態、セルマの勝利だということに気がつくのだ。

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■0118「トレインスポッティング」

 「トレインスポッティング」(ダニー・ボイル監督、1996年)は、スコットランドの若きジャンキーたちのメチャクチャな生活ぶりを、確かな技術に裏打ちされた自在な映像と繊細な選曲で描いた傑作。端正さと破壊性、巧みさと切実さが、これほど見事に溶け合った作品は、ざらにはない。イギリス映画の1990年代を代表する一本になるだろう。

 観終った後のえも言われぬ快感は、実際に観てもらわなければ伝えようがない。スピーディなのにデリケートなカット割りの心地よさ、リアルとシュールの優れたバランス感覚。音楽のじゃれ合いの新鮮さ。切れた登場人物の生々しい魅力。どれをとっても、長々と評価することが可能だ。しかし、本当に素晴しいのは、それらが全体として新しい青春映画になっていることだ。

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■0117「パリ空港の人々」

 スティーブン・スピルバーグ監督の新作「ターミナル」を観て、すぐにフィリップ・リオレ監督のフランス映画「パリ空港の人々」(1993年)を思い出した。
 1988 年、イランを国外追放されたマーハン・カリミ・ナセリは、パスポートと国連の難民証明書を入れたアタッシュケースが盗難にあい、英国入国を拒否された。パリのシャルル・ドゴール空港に降りたものの無国籍なので、フランス当局は彼に空港内から出ることを禁じた。フランスに入国することも、よその国に出て行くこともできないので、ドゴール空港のターミナル内に暮らすことになった。この実話は脚色され、「パリ空港の人々」として映画化された。この作品では空港が、解放された場所、一種のアジールとして描かれている。空港から外に出られなくなって、空港の奥に入ると、そこには何年も外に出られずにいる人々の平穏な生活がある。国と国との間にできた無国籍空間としての空港。時代を先取りした映画だった。

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■0116「セントラル・ステーション」

 「セントラル・ステーション」(ヴァルテル・サレス監督)は、1998年第48回ベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)、 銀熊賞(主演女優賞)受賞作品。ブラジル映画が国際映画祭でグランプリを受賞したのは、この作品が初めて。派手さはないが熟成された脚本を、手堅い映像が人間ドラマへと肉付けしている。過酷なブラジルの現在を背景にしながら、映画と人間性への確かな信頼がある。往年の作品を彷佛とさせる素直な感動を運んでくる。久しぶりに「珠玉の名作」という言葉を思い出す。

 代書屋をしているドーラは、人々の切実な手紙を嘲笑し出さずに捨ててしまうほど心が荒んでいる。母親が交通事故で死んだ少年ジョズエをいったんは売り飛ばすが、臓器として売られることを知り、助け出して少年の父を訪ねる旅に出る。少年の純真さに触れるうちに、都会で荒れた心と過去のトラウマから解放されていく。ユーモアをちりばめながら、その過程が実に自然。ドーラ役フェルナンダ・モンテネグロの貫禄のある演技は賞賛に値するが、ジョズエを演じたヴィニシウス・デ・オリヴェイラには天賦の才能を感じた。この作品の製作に日本が関わったことを嬉しく思う。

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■0115「レミゼラブル」

 「レミゼラブル」(ビレ・アウグスト監督、1998年)。ビクトル・ユーゴーの大河小説を大胆に圧縮し、133分にまとめあげた。原作の持つ重厚さは薄れたが、慈愛と法律というテーマは、くっきりと浮かび上がった。ジャン・バルジャンとジャベール警部の迫真のドラマは、現代的な意味を失っていない。丁寧な時代考証と品格のある映像が、映画的な魅力を高めている。「ああ無情」は、母ファンテーヌと娘コゼットの悲惨さがとりわけ印象に残っているが、涙なしでは観られないこの部分を思い切ってカットした脚本は、一つの見識といえるだろう。

 ジェフリー・ラッシュが素晴らしい。「シャイン」でも熱演していたが、無慈悲な法律を守ることで自己を保とうとするジャベール警部には、説得力があった。ジャン・バルジャン役のリーアム・ニーソンは、逞しさと繊細さを合わせ持つ主人公にぴったり。薄倖のファンテーヌを演じたユマ・サーマンも、意外なほどはまっていた。超名作にあえて挑戦したビレ・アウグスト監督の賭けは、ほぼ成功した。

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■0114「世にも憂鬱なハムレットたち」


 「世にも憂鬱なハムレットたち」(1995年)は、隠れたクリスマス映画である。見終わって明りがつくと、クリスマス・イブに感じる温かな雰囲気が劇場に満ちていた。良い映画を観た後の幸せな表情が目立った。ケネス・ブラナー監督の才気を感じさせる逸品。このとき35歳。これまでに製作した作品を眺めると、天才という言葉が恥ずかしくない活躍ぶりだ。

 今回は旧知の俳優を起用し自分は監督に徹した。売れない役者たちが、それぞれの思いを胸に「ハムレット」の上演に向けて協力し、あるときは反目する。喜劇仕立てながら、演出家、俳優の本質的な苦悩が伝わってくる。「ハムレット」という重い芝居が、役者たちのコミカルだが切実な生き様を引き立たせる。現在の映画界への皮肉をさりげなく盛り込みつつ、最後は見事なハッピーエンド。真面目なブラナー監督の優しさに、あらためて感動した。

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■0113「白痴」

  「白痴」(1999年)は、映像作家・手塚眞の夢が実現した作品。豪華多彩な俳優をそろえ、戦火の焼跡と近未来のセット、斬新なアートを合体し、8ミリから最新のCGまでを盛り込んで映像の歴史までも再現した。自分の気に入ったものをすべて取り込んだかのような多彩な展開。しかし、手塚眞ワールドとしてのユーモアと透明感が全体を包んでいる。紋切り型の結末と、深まらない人間造形が物足りないもの、全身全霊を傾けたような熱気には圧倒された。

 絶望している浅野忠信と無垢な甲田益也子の演技ばかりが、取り上げられているようだが、この作品で最も輝いているのは、国民的なカリスマアイドル・銀河役の橋本麗香だ。彼女のエキゾチックな踊りからCGに移る華麗さに息を飲んだ。美しい。小悪魔というよりもサロメに近い妖艶さとわがままさを持っているが、一方で自分の虚像に怯えている。その振幅が魅力的だった。

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■0112「シャイン」

 「シャイン」(1995年)。映画が終わり、感動に浸っている自分を発見した。批評を忘れて物語に心を奪われた。スコット・ヒックス監督の初作品は、さわやかさと情熱に満ちた傑作だった。
 実在のピアニスト・デイヴィッド・ヘルフゴットの自伝的なストーリー。本人が生きている場合、どうしても切り込みが甘くなりがちだが、この作品は一人の人間の生きざまを描くためにけっして手をゆるめない。かといって、大げさな演出をするわけでもない。それぞれの人間を描く目線が実に的確だ。
 ピアノ曲はデイヴィッド・ヘルフゴット自身の演奏。どれも素晴しいが、繰り返し挿入されるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、とりわけ忘れ難い。真正直なまでにストーリーと一致した選曲が清々しい。ストーリーを追うのではなく、映像の息づかいを追ってほしい作品。

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■0111「メリーに首ったけ」

 「メリーに首ったけ」(ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー監督、1998年)は、過激で下品なギャグという点では「キカ」(ペドロ・アルモドバル監督)と肩を並べる水準。一見差別や虐待につながりかねないギャグを連発しながら、嫌味にならないバランス感覚と根底に優しさを持っているのがファレリー兄弟の強みだ。B級に徹することで一級のコメディに仕上がった快作。

 メリー役のキャメロン・ディアスは、いつもながらキュート。その魅力が、いかれたギャグの毒気を中和していることは否定できない。下ネタの危ないギャグをチャーミングに変えてしまう。マット・ディロンも調子のいい詐欺師ヒーリーを軽妙に演じていた。そして愛すべきテッド役のベン・スティラーが、ドジの限りを尽くして場を盛り上げる。不死身のギブス犬の活躍も忘れずに指摘しておこう。

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■0110「アップルシード」

 今夜は新しいアニメを。「アップルシード」(荒牧伸志監督、2004年)の「この映像が映画の未来を変える。」という宣伝コピーは、偽りではなかった。ダイナミックでシャープ、そしてなめらかで柔らかな映像に陶酔した。見事なまでに高いクオリティに仕上がっている。ハリウッドが、そのオリジナリティにひれ伏したのも無理はない。アニメ映画の歴史に、間違いなく新しい1ページを刻み込んだ。サウンドトラックも、そこいらのハリウッド映画以上にハイセンスでかっこいい。

 士郎正宗の原作だが、ストーリー展開は、ハリウッド好みに変えられている。しかし、その点は今回大目に見ようと思う。世界に向けて配給するためには、仕方のないことだ。すでに「2」の制作が始まっている。畳み掛けるように公開し、アニメの新しい地平を世界に示してほしい。

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■0109「リディキュール」

 パトリス・ルコント監督は、エスプリに浸らない。「リディキュール」(1996年) は、貴族界の華やかさとエスプリ、権謀術策を巧みに描くとみせて、実はその世界の限界を鮮やかに示す佳作。それは、コスチューム劇に見とれていた観客への、毒に満ちたユーモアでもある。

 地方貴族のポンスリュドンと中央に君臨するヴィルクール神父。貴族界で権謀術策をめぐらせる屈折したブラヤック伯爵夫人と自然を探究する実直なマチルド。人物対比がとてもいい。そしてベルガルド侯爵がトリックスターとして活躍する。

 当時の貴族界が競争と緊張に満ちた世界であることを丹念に描きながら、 閉ざされた空間での話術を絶対視する世界の危うさを示すことも忘れない。それが、聴覚障害者の手話の豊かさであり、過酷な自然の存在である。ラスト近くでブラヤック伯爵夫人が示す虚ろな表情に、貴族界の脆さが象徴されている。とはいえ、ルコントの描く宮廷はぞくぞくするほど魅力的だった。

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■0108「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」

 1995年作品 。スペイン映画。アグスティン・ディアス・ヤネス監督・脚本。「死んでしまったら私のことなんか誰も話さない」という邦題は、いちはやく原発下請け労働者の被曝やアジアの出稼ぎ労働者の問題に焦点を当てた佳作「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(森崎東監督)に次ぐ、長い題名だ。しかし「党宣言」が差別されて生きる者のバイタリティをうまく表現していたのに比べ、「誰も話さない」からは映画の強靭なメッセージ性が響いてこない。ただ、「心の自由」を核にした女性の自立という志は、世代を超えてドニャからグロリアへと、確かに伝わった。

 達者なビクトリア・アブリルが、さらに幅を広げた熱演をみせているが、その他の出演者も皆いい味を出している。とりわけ、義理の母親ドニャ・フリア役のビラル・バルデムは、いぶし銀とでも表現したくなる名演技だった。スペイン共産党員としてフランコ独裁政権と闘い、拷問にも耐えてきた女性が最後に自分の意思で自殺するという困難な役を、見事にこなした。

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■0107「マルセリーノ・パーネヴィーノ」

 「マルセリーノ・パーネヴィーノ」(1991年)は、75歳の名匠ルイジ・コメンチーニ監督が「汚れなき悪戯」(1955年、ラディスラオ・バホダ監督)をリメイクした作品。修道院で育った孤児がキリスト像とともに昇天したという民間伝承「マルセリーノ・パーネヴィーノ」は、14世紀のイタリア・ウンブリア地方で起こったと言われる。映画では舞台を17世紀に移した。

 いずれの時代にも、戦時下の修道院はシェルターとして利用され、多くの孤児たちがそこで育てられたという時代背景があればこそ、孤児の昇天という奇蹟がリアリティを持つ。映画では、冒頭で戦火を描いているものの、その後戦争の悲惨さはほとんど登場しない。マルセリーノを見つけ、育てる修道士たちの優しい姿を中心に描かれる。

 マルセリーノ役ニコロ・パオルッチ少年は、本当に愛くるしい。さわやかな笑顔に哀しげな瞳が印象的だ。ただ、厳しい戦争の時代と修道院の中の平和、大人の狡猾さと子供の無垢さという対比が十分に生かされず、甘いファンタジーに仕上がっているのが物足りない。しかし、老境を迎えたルイジ・コメンチーニ監督が、自らの癒しを込めて奇蹟を美しい映画を撮ったと考えれば、納得がいく。

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■0106「フィオナの海」

 「フィオナの海」(ジョン・セイルズ監督、1994年)は、ロザリー・K・フライ原作のアザラシ伝説の映画化。原題は「THE SECRET OF ROAN INISH」。アイルランドに伝わるケルトの妖精セルキーの伝説をモチーフにしている。ジョン・セイルズ監督は、「希望の街」など社会問題を扱った作品が多いが、この作品ではイギリス人に抑圧されてきたアイルランド人の歴史は背景に置かれ、人間とアザラシの交接という神話的な世界が繰り広げられる。
 ストーリーも映像も美しいが、予想通りの展開で面白みがない。1957年の原作に忠実なあまり、現代に対する切り込みが弱い。フィオナ役のジェニー・コートニーは、凛とした少女を演じ切ったが、あまりにも聡明で迷いも怖れも知らず、人間離れしたキャラクターになってしまった。ケルトのアニミズム的な世界と現代のあらゆる分野でのハイブリッド化現象をつないでみることはできなかったのだろうか。

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■0105「うなぎ」

 今村昌平監督2度目のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品「うなぎ」(1997年)。重いテーマを、ユーモアを交えて軽やかに描いた悲喜劇。その柔軟で繊細な手さばきは、十分受賞に値する。若手を脚本に加えた狙いも当たった。

 妻の浮気を目撃し包丁で刺し殺す役所広司の熱演は、誰もが評価するところだろう。妻役・寺田千穂の無言のまなざしも忘れ難い。そして、自殺未遂がきっかけで主人公と出逢う服部桂子役の清水美砂の見事な演技。確信犯とも言える主人公に対し、彼女の置かれた境遇ははるかに過酷だ。清潔な印象が、かえって幾重にも屈折した心理を暗示する。

 最も心をゆさぶられたのは、桂子が宴会の余興でフラメンコを踊るシーンだ。その前に、心を病んでいる母親がフラメンコを踊る場面を繰り返し見せられ、桂子が「あの母の血をひいていると思うと怖くって」と言っていただけに、その境遇からのふっきりとして、これほど象徴的なシーンはないだろう。今村映画に共通する力強い女性像だ。

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■0104「妻の恋人、夫の愛人」

 劇作家と新人女優、二人の関係を嫉妬する妻、そこに現われたハンサムな映画スター。「妻の恋人、夫の愛人」(ジョン・ダイガン監督、1996年)は、お膳立ての整った恋愛劇だが、劇中劇と絡み合い、それなりの厚みを醸し出している。夫の不倫に苦しむ妻は作家としての才能が認められ映画スターと結ばれて幸せになる。一方劇作家と結婚した女優は単調な生活に孤独を感じる-。終始、妻の立場に肩入れした展開はそれなりに新鮮だったが、結末はもう一捻りほしかった。
 実質的に物語をリードするロビン・グランジ役のジョン・ボン・ジョヴィは、めりはりのある演技をみせた。俳優としても十分才能に恵まれている。サイコ・スリラー的な凄みが意外に似合ったエレナ・ウェブ役のアンナ・ガリエナは、振幅のある妻を演じ切った。繊細だが腑甲斐ない劇作家フィリックス・ウェブを演じたランベール・ウィルソンも、はまり役だった。3人に比べると新人女優役ダンディ・ニュートンは、やや魅力に乏しい。しかし、これも妻の視点のなせる業かもしれない。

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■0103「ルイズ その旅立ち」

  「ルイズ その旅立ち」(藤原智子監督、1997年)は、1923年9月16日に軍部に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の四女・伊藤ルイさんの生き様を、家族や周囲の人たちの証言をもとに描き出していくドキュメンタリー。ルイさんは、松下竜一氏の「ルイズ父に貰いし名は」の出版を機に、草の根市民運動に力を入れ、全国的なネットワークをつくった。札幌でも講演している。藤原監督はルイさんの死後から撮影を始め、本人には一度も会っていない。しかし、巧みな構成によってルイさんの凛とした生き方が、くっきりと像をむすぶ。見事だ。キネマ旬報1997年文化映画部門ベストテン第1位に輝いた。

 癌の宣告を受けたルイさんが手術も延命措置もせずに1996年6月28日亡くなったあと、7月13日に開かれた送る会の場面から、映画は始まる。そして幼友達、姉妹、家族、市民運動の関係者、看護婦が、次々にルイさんの思い出を語る。その間に、大杉栄と伊藤野枝の活動などを自然な形で紹介し、ルイさんの少女時代の過酷さが裏付ける。実撮のフイルムはないが、ルイさんの声、写真が、実に効果的に使われている。観終わっても、ルイさんの張りのある声が耳にこだましていた。そして、もうこの世にはいないという悲しみが、長く私を浸した。

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■0102「アントニア」

 「アントニア」(マルレーン・ゴリス監督、1995年)は、最初に微笑ましい幻想シーンを盛り込むことで、観ている者に寓話的な安心感を与えながら、性の規範から逃れた女性たちの生き様を正面から描いている。その生き方の揺るぎのなさは、たおやかな風景と相まって清々しい。
 妊娠と出産が生きがいのレッタは早死にするものの、呆気なく死んでいくのは男たちだ。ただ、本当の対比は厭世主義者・曲がった指とアントニアだろう。二人は仲が良いが対照的な生き方をしていく。ショーペンハウエルとニーチェの関係のように。アントニアの娘が美術、その娘が音楽、そのまた娘が詩を志すというのも象徴的だ。
 「すべては終ることはない」。この母系社会の圧倒的な現実肯定を前にして、男たちは今反論する余地もなく立ち尽くす。しかし、すべてを許し包み込む甘美な世界に身をゆだねる訳にはいかない。私は、嫉妬しつつ賞賛はしない。

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■0101「ファイト・クラブ」

 映画に殴られるという経験は、そうたびたびあることではない。「ファイト・クラブ」(デイビッド・フィンチャー監督、1999年)は、正面から殴り掛かってくる作品だ。私たちのふやけた日常を指弾する。ファミリー映画のフィルムにポルノを挿入したり、レストランでスープに尿を混ぜたり、美容整形で吸引された脂肪から石鹸を作って売ったりと、随所に観る者の神経を逆なでする企てをちりばめ挑発する。ブラッド・ピットがこれまでのイメージをかなぐり捨てて暴れ回る。エドワード・ノートンのあいまいな挙動がラストのオチを際だたせる。 死に取り付かれながら無軌道と自律に揺れるヘレナ・ボナム・カーターの演技も「鳩の翼」(イアン・ソフトリー監督)とともに傑出している。

 ブランド指向の消費生活に浸りつつ不眠症に悩み、密かに睾丸ガン患者たちのセラピーなどに参加するナレーターの存在は、ぞくぞくするほどリアル。タイラー・ダーデンとの殴り合いによって痛みの充実感を得る展開も、心の深い所で納得できる。殴り合うことに共感する男たちが増え、クラブを設立し、やがて社会を根底から破壊するテロ集団に変ぼうしていく。ファシズムと、安易に規定して目を背けることはたやすい。しかし、ここで描いているのは、満たされない男たちの赤裸々な欲動そのものだろう。目をそらしても何も解決しない。見つめながら、危険な道を回避しようと試みるしかない。

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■0100「千年女優」

 「千年女優」(原案・脚本・監督・キャラクターデザイン=今敏)ほど、劇場公開を見逃したことを後悔したアニメはない。だまし絵的な世界と日本映画の歴史と純愛劇が、めくるめくような編集によって、艶やかに展開されていく。その見事さ、魅力に茫然とした。
 この87分の世界には、重層的な面白さが畳み込まれている。ドリームワークスが、即座に全世界配給を決定したのも、うなずける。現実と幻想が、これほど美しく混ざりあい、感動を引き出す場面は、そう実現しない。ラストの死を間近にした藤原千代子の言葉も、女優としての醒めた分析であり、作品自体への批評になっていて感心した。興醒めしたという人は、この娯楽に徹した作品の計算された複雑さを楽しんでいないと思う。

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■0099「Pola X」

 レオス・カラックス監督の「Pola X」(1998年)は、絶望的でありながら美しく、多面的でありながら純粋なストーリー。心をわしづかみにするような鮮烈なシーンの連続。その映像的な強度に打ちのめされ魂を揺すられて、映画が終ってもしばらく立ち上がれなかった。これほどまでに監督の熱い思いが乗り移った壮絶な映画は、稀だ。フランス社会を横断しながら、愚直に真実を求め謎の中に堕ちていく青年のおろかさがまぶしい。Pola Xという題名は、メルビルの仏語訳原題「ピエール、あるいは諸々の曖昧さPierre ou les ambiguites」の頭文字に、謎を表すXを加えたもの。
 ギヨーム・ドパルデューとカテリーナ・ゴルベワの熱演は認めるが、カトリーヌ・ドヌーブがこれまでのキャリアを踏み越えて、熟年ヌードを見せバイクに乗り事故死するという思い切った役を演じていたのに感動した。前半の城の中での優雅な母親と息子のセクシーな戯れにも、彼女ならではの味わいがあった。それは、後半の廃屋での「姉」と「弟」の狂おしいベットシーンと対の関係にある。愛しながら理解し合えないという基調音を響かせながら、そのコントラストが胸を撃つ。

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■0098「M/OTHER」

  「M/OTHER」(諏訪敦彦監督)は、1999年カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞した。デザイン会社に勤めるアキは、レストランを経営する哲郎は、自由な同棲生活を続けている。しかし、哲郎の別れた妻が交通事故に遭い、事前にアキに連絡もせず、8歳の息子・俊介を連れ戻る。アキは不満を抱えながらも共同生活を始めるが、次第に情緒不安定になり、哲郎との関係が壊れていく。痛いほどのリアリティに引き込まれた。「私の事なんか知らないじゃない」「一人にするなよ」。クライマックスでの会話は、現在の男女の位相を端的に表している。人間がともに生きていくということの困難性が、生々しく浮き彫りになる。
 この作品は、最初に簡単なプロットだけがあり、リハーサルを行いながら台本をまとめるという諏訪敦彦監督の独特の方法が取られている。台本は、決定的なものではなく、どう動き、何を話すかは、俳優に委ねられている。そこから、自然さや緊迫感がにじみ出てくる。まさに、その手法が大きな成果を上げた。アキ役の渡辺真起子は、等身大の揺れ動く現代女性の感性そのまま。三浦友和も優柔不断で利己的な中年男性を演じた。何よりも驚いたのは、8歳の高橋隆大の即興演技と会話の自然さだ。「子供はいつも即興で生きている」という、諏訪監督の言葉が納得できた。

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■0097「踊れトスカーナ!」

  レオナルド・ピエラッチョーニ監督の日本初公開作「踊れトスカーナ!」(1996年)。イタリアの小さな町トスカーナで、それぞれ個性的だが平凡な毎日を過ごしていた会計士レベンテの家族。ある日道路標識が壊れていたので、レベンテたちの家をホテルと勘違いして訪れたスペインのフラメンコ・ダンサーの一行が現れ、レベンテはダンサーの一人に一目惚れ、生活は一変する。最後はハッピーエンドで終る、いかにもイタリア映画らしい陽気なストーリー。しかし、イタリア映画で中心になりがちな母親をあえて不在にし、さまざまなひねった仕掛けをちりばめている。そして、抑制の効いた映像。もう少し観たいと思わせて場面転換するセンスは心憎いばかりだ。オチもばっちり決まった。
 個性派ぞろいの中で、とりわけ輝いていたのはカテリーナ役のロレーナ・フォルテーザ。テーブルの上で、そして庭でフラメンコを踊るシーンは、魅力いっぱいだ。主人公レベンテを演じたピエラッチョーニ監督も、真面目な半面とぼけた味で憎めない。

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■0096「キャラバン」

 「キャラバン」(1999年作品)は、ヒマラヤ4000メートル以上の山地でのオールロケによる作品。構想10年。1980年代からネパールに住んでいたエリック・ヴァリ監督は、3年間ドルポの村に住み、村人との信頼関係を築いていった。その結果、大自然の中での壮大なドラマを、村人たちが演じるという困難な課題を克服することができた。写真家でもある監督だけに、自然の切り取り方が抜群に美しい。そして、人間と自然のたぐいまれな距離感は、そこに住んでいる者でなければ、なかなか生まれないだろう。
 麦を得るための命懸けのキャラバン。そこに指導者をめぐる世代間の対立を絡める骨太の構図。なんといっても長老ティンレ役ツェリン・ロンドゥップの渋い演技が光る。ただ、死に際に、それまで憎んでいたカルマとすんなりと和解するシーンは、ちょっと違和感があった。もっとも、心の奥底で通じ合っていたとも考えられるが。 子役パサンを演じたカルマ・ワンギャル少年の、涼し気なまなざしが印象的。次期指導者の片鱗を感じた。

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■0095「身も心も」

 シナリオライター荒井晴彦の監督第1作「身も心も」(1997年)。撮ってもらえる監督がいなくなった、というのが監督した動機だと荒井監督が話していた。50歳を目前にした全共闘世代の迷いを、家族のほころび、男女関係の交錯から見据えようとしている。学園紛争という鮮烈な歴史を引きずりながら生きてきた男女の一つひとつの会話は、言葉が立ち上がり切れがある。さすがだ。しかし全体としてはストーリーに新鮮さがない。
 発見は別の所にある。40代後半のセックスを正面から美化せずに描きながら、しかし見苦しくないというのは、画期的なことではないか。少なくとも「失楽園」の現実味の無さとは対照的だ。何を考えているのか分からないが、三角関係を続ける柄本明の表情と身体は特筆に値する。このつかみどころのなさこそが、この映画の華だろう。だから、ラストシーンでとりあえず血のつながりにすがろうとした監督の投げやりな態度を許す気になれない。

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■0094「CUBE」

 「CUBE」(ヴィンチェンゾ・ナタリ監督)は、SFからミステリー、ホラーまで、密室に多様なジャンルを詰め込んだ傑作だ。ナタリ監督初長篇作品で、製作費は5千万円足らず。6面体と半分の3面のセットに部屋から抜ける通路が一つずつあるだけ。壁は特殊ガラスにし、いろいろな色のジェルを流して変化をつけたと、映像づくりの工夫を監督が明らかにしている。しかし低予算を意識させない端正で重厚な映像、緊密なストーリーに感心した。連続し移動する正6面体に閉じ込められた6人が、部屋に仕掛けられた殺人トラップを見破りながら脱出を試みる。極限の緊張で人々は対立し憎しみ合う。数学的な法則が貫かれた部屋、無機的なワナ、そして人間たちの殺りく。スプラッター的な始まりで観るものをひきつけながら、シンメトリカルなデザインの中で繰り広げられるのは、赤裸々な人間の葛藤だ。それが古典的な味わいを醸し出す。ただカフカ的な寓意性を持たず、悪が亡び無垢な者が生き延びるゲーム感覚のラストを用意したナタリ監督は、デビッド・クローネンバーグとは異なる感覚のカナダ新世代といえるだろう。

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■0093「ラブ&デス」

 「ラブ&デス」(リチャード・クウィートニオスキー監督)は、クウィートニオスキー監督長篇第1作。慎ましやかで、ほのぼのとしたラブ・コメディでありながら、根底にアメリカ、イギリス両文化への鋭い批評を含んでいる。「美少年と老芸術家」という共通点でビスコンティ監督の「ベニスに死す」と比較する評論が目立つが、両者の味わいは全く違う。死が漂う退廃的な耽美ではなく、知的だが滑稽でもある切なさが、この作品の持ち味だ。 映像文化を理解していなかった堅物の作家が、ひょんなことからB級映画のアイドルに一目ぼれし、雑誌を買い漁って彼の写真を切り抜いたり、初めてビデオデッキを買って作品をレンタル、さらに「追っかけ」までする変身ぶりが笑える。重たい役が多かった知性派ジョン・ハートが、軽妙なコメディを演じている。うまい。代表作の一つと言えるだろう。

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■0092「ラブ&ポップ」

 「ラブ&ポップ」(庵野秀明監督)は、主人公・吉井裕美の股間からのカメラ・アングルなど素人くさいへんてこな映像から始まり、観ているほうが恥ずかしかったけれど、知らぬ間に映画の中に引き込まれていた。編集の巧みさは群を抜いている。現在のアニメ製作現場と監督の自己閉鎖の2つの限界を超えようとする試みといえるが、映画界にとっても刺激的なアプローチだ。女子高生の淋しさと男たちの寂しさが「援助交際」という形で出会う様が淡々と描かれていく。キャプテンEOの場面は説教臭くなりがちなシーンだが、浅野忠信の繊細さと理不尽さが、人々のやりきれない孤独を浮かび上がらせることに成功している。監督自身をカリカチャーしたと思われるウエハラ役の手塚とおるも、ぞくぞくするほどの熱演だった。エンドロールで4人の女子高生が、ふてくされながらも力強くどぶ川の渋谷川を歩き続けるシーンは秀抜。当初は4人が沖縄に旅行でやってきて明るく遊ぶシーンにする予定だったようだけど、印象がまるで違ったはず。どぶ川と女子高生の方が、はるかに庵野秀明らしい。

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■0091「In & Out」

 「In & Out」(フランク・オズ監督)は、故・淀川長治さんが推薦した最後の作品として有名だ。パロディ感覚に満ちたオスカーのシーンから物語が始まり、同性愛のカミングアウトと周囲の温かな支援という結末。観終って、温かな気持ちになる。両親も教え子も、その親たちもあまりにもすんなりとゲイの先生を受け入れてしまうので、差別の深刻さ、カミングアウトの重さが分っていないという批判は当然あるだろう。しかし、小さな村での共感の広がりに、素直に感動する。公の場で、ゲイと名指しされたハワード・ブラケット役のケビン・クラインは、絶妙の演技。あたふたし、じたばたしながらも自分の性的指向を見つめ、ついに結婚式の場で同性愛者であることを明らかにする。あっと思わせながら、納得してしまう展開。クラインのうまさと脚本の良さが、爽やかな傑作を生み出した。

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