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2007.02.18

■音声付き「チパシリ夢十夜」1.幻氷

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 汽車が駅に着くと、月は街を照らし始めた。駅の扉を開けると、乾いた寒気が群がり、熱い記憶を奪っていく。駅前の見慣れぬ古本屋で足を止めた。私は、古本屋の空気が好きで、見つけるとつい足を向けてしまう。氷紋が入り口のガラスを覆っている。車のライトに照らされ、氷紋は雲母のように舞う。

 開けようとした戸は、半分まで開いたまま動かない。すき間から身体をすべらせ、静かに閉めたつもりだったが、戸は大きな音を立てた。空気が緊張し、奥に座っていた女性が、顔を上げた。白いセーターがまぶしい。並べてある本は、どれも汚れ、歪んでいたが、書名を読むうちに身体が熱くなった。今まで探していた本が並んでいた。一人の人が集めたものに違いない。有機的な宇宙が息づいている。どれもごく少部数しか印刷されず、今では散逸している本だ。

 「この本はいくらですか。今持ち合わせがないので、予約できないでしょうか」。カタリと音がして、女性が立ち上がった。「その本はお売りできません」「是非とも買いたいのです」。彼女は、じっとこちらを見つめた後、しばらくして「どうぞ」と奥の椅子を示した。私はためらいながら、その椅子に座った。薄いベニヤの床が少し沈んだ。

 彼女は、初対面の私に古本屋開店までの経過を話してくれた。友人が急死し蔵書が残ったこと。親が本を持て余し彼女が譲り受けたこと。「3日前なんです、開店したのは。あなたがほしいと言った本は、彼が特に大切にしていた本でした」。彼女は視線を外に向けた。私は彼女の手首の傷を見つけ、言葉を飲み込んだ。

 突然彼女は立ち上がり、薄暗い部屋の奥に歩き始めた。急に足元から冷気が伝わってきた。さっきまで柔らかかった床は、凍っている。私も彼女を追って奥に進んだ。彼女はどこまでも歩き続ける。何分経っただろう。私は流氷の上を歩いていた。流氷原はどこまでも広がっている。私は悪寒に襲われ、氷の上に座り込んだ。忘れていた疲れが全身から湧き出した。歯ががちがちと鳴る。悪寒が治まると、今度は睡魔が全身を包んだ。耐えきれずに横になると、氷は柔らかく暖かかった。

 「あなたも眠ってしまう」。彼女の声が響いた。眼を開けると、流氷原に幻氷が次々と重なり、天上まで続いている。彼女は幻氷の上から悲しげに見つめていた。白いセーターが、氷紋に変わっている。眼が合うと、彼女の顔は氷が張ったように無表情になった。そして、身をひるがえすと階段を一段ずつ上り始めた。幻氷はかすかに揺れながら彼女の歩調に合わせて七色に変化した。

 閃光が私を包んだ。痛んだ眼を開けた時には、青白い流氷が、牛のように軋んでいた。

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