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2004.10.10

■仏哲学者のジャック・デリダ死去!

 フランスの哲学者ジャック・デリダが9日、膵臓(すいぞう)がんのためパリの病院で死去した。74歳だった。プラトンからニーチェ、ハイデッガーまでの西洋哲学全体を先鋭的に批判・解体し、西洋中心主義を問い直す「脱構築」の思想を展開し、大きな影響を与えた。

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コメント

そういえば。
 エクリチュールと身体だけが存在する、というテーゼは、いったいどれほどまでに現実的なのであり、いったいいま、どのように批判検討できるのでしょうか。
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 なんであるか(本質存在)という問いと、なにがあるの(現実存在)、という問いが哲学の伝統的な問いにほかなりません。
 ことばとはなんであるか、という問いに、ことばで解答しようとすることは、むろん、さまざまな自己言及のパラドックスを孕みます。伝統的には、ハイデガーも予め断っていたように、存在の意味を問うとき、「存在(ある)とは~で《ある》」というように答えるならば、存在は存在である、といっ
た同一性の循環に閉じられてしまうということがあります。しかるに、ハイデガーは「なにがあるのか」という問いを問うさいに、伝統的な現実存在の概念ではもはや届かない議論を再開しようとしたのでした。すなわち、なにがあるのかといえば「生成がある(存在する)」のです。そして、「存在とはなん
であるか」といえば、「存在とは生成である」のです。こうしてパルメニデスの箴言の意味は、存在と生成との二元論のことではない、とハイデガーは考えたのでした。
 むろんこうしたことは、「なんであるか」という問いそのものが問いの出し方としていけないのだ、というデリダによって広められてしまった通念を振り回すだけでは、見えないことなのです。
 では、意味と価値とが、ことばとして「生成」するとは、どういったことがらなのでしょうか。
 自然と同じ仕方で、ことばが生成するのではない、ということが、これまでの哲学の難問だったのであり、創造主としての神(およびロゴスの受肉化)といった装置は、形而上学においては、この難問を回避し、隠蔽するためのものであった、と言うこともできます。こうした装置をめぐって、ヴィトゲンシュタインは、形而上学的な問題を「ナンセンス」としたのでした。デリダ風にいえば、形而上学のロゴス中心主義ということになるでしょう。
 ここでヴィトゲンシュタインを引いたのは、ヴィトゲンシュタインとデリダ、といった切り口もかつてあったからにほかなりません。ヴィトゲンシュタインも一枚岩ではないその思考に展開があり、さらにそれをデリダとを直結することはできないでしょうが、ことばを自然発生的なものとして捉えたり、あるいは、自然/人為の二分法を一方から他方へ、他方からもう一方へと行き来しているだけでは、わたくしたちのことばは、ただ空無のなかに放り出されているにすぎません。空無のなかに放り出されていることばを、「暗黒の中の一突き」とか「跳躍」という例の議論で正当化しうるものではないのです。むろん、ことばの根が失われているということ自体は、あるの
ですが。
 さて、ヘーゲル哲学が「生命の論理」であり、ハイデガーの思考が「存在のことば(存在はことばの住み家である)」というとき、デリダは、ことばと生命とのあいだに穿たれた構造として、エクリチュールを想定したのでした。(ところで、構造とは「それ以上、言い表せぬもの」なのですから、構造をシステムとして捉えることは必ず仮説になります。)構造主義においては、ことばの根拠は身体にある、という考え方がすでに提起されていました。そして、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論、およびデリダのエクリチュールをめぐっては、(これはヴィトゲンシュタイン研究者やデリダ研究者からすれば、極論でしかなかったでしょうが)、「エクリチュール」と「身体」だけが存在する、という見解さえ立つことになったのです。
 なにが存在するのか? エクリチュールと身体が存在する。
 むろん、ここでは超越論的主観さえ、存在するかどうか危ういのです。そして、ハイデガーいらいの古典的主体=主観の解体というテーマに、ますます拍車がかかっていったこと、そこからさまざまな暴論が正当化されたことは周知のとおりです。
しかし、これではすでに構造主義が提起していた矛盾、構造とはそれ以上言い表せぬものであり、その構造にことばの根拠がある、というあの矛盾が、連続していたことを表明しているにほかなりません。しいていうならば、身体=物自体の生命や欲望に、ことばの本質があるのではなく、ことばの生成それ自体が物自体なのだ、と規定したようなものです。とはいえ、明らかに、ポスト構造主義と呼ばれていた一連の言説では、ことばの根拠が、欲望が物自体としての生命としてあるのではなく、いつも、すでにことばとしてある、ということが主張されていたのでしょう。しかしながらこれは、いくらつきつめても、
欲望の論理にしかならない、という条件づけであったのです。
 エクリチュールと身体だけが存在する、といったこうした構造主義~ポスト構造主義が必然的に抱え込む倒錯可能性への闘い、欲望の論理への闘いが、こうして開始されたと言ってよい。しかるに、ラカンは左翼的党派性へと身を委ね、ドゥルーズは欲望の理論を保持しつづけ、デリダは、カント的な超越論的主観を保持した展開へと流れたのでした。では、フーコーは? フーコーはかろうじて、ハイデガーの提起した問題をさらに解きほぐす作業を遂行しつづけていましたが、しかしなお、ニヒリズムとの闘いに道標をたてるには至っていなかったのです。
 むろん、これは概説的であって、一定のものの見方です。ドゥルーズの哲学は、欲望論にとどまらない可能性を抱えているとかですか、読み方によっては、いかようにでも論理を組むことは可能なのです。しかしいずれにせよ、フランス現代思想は、現代社会をよりうまく説明した理論として流通し、流通させられたのでした。そしてむしろ、問題提起の先鋭化だったのにほかならないのでしょう。
 こんにち「人間」は消滅していないものの、人間はますます奇怪になってゆきます。ポストモダンによって現代社会を正当化することも、ポストモダンの反動をもとに価値と意味とをたてることも、いまだ解答しようともしていない態度ということになってしまいます。解答することは困難ですが、解答しようともしないことは、怠惰というよりも、なにも考えずに生きてゆける時代だ、ということを確認しているにすぎないのです。
 なにやら哲学の危機を素描するだけになってしまいましたが、

なにが存在するか?
 くだらない恋愛論(?)と、床屋の政治談議ばかりが、生を謳歌する、といえば、愚痴になるでしょうか。

投稿: レモネードずんだ甘粕 | 2004.10.14 00:31

死んだの?
 掲示板で哲学できるとは思えないのですが、さしあたって述べられることを・・・・・・
 あたかも、デリダとデリダ主義とは不可分であるかのようでした。ふつうは、思想家(哲学者)と「~主義者」とが、異なることは自明のことです。しかるにデリダとデリダ主義の場合はそうではないかのように、運動(?)が展開したように思います。これはデリダにとって不幸でした。デリダの思想の一部分だけが先鋭化されたからです。デリダ主義者がデリダを批判検討することがなかったということもまた、そうしたことの原因のひとつでしょう。かつてのヘーゲルとヘーゲル主義者もまた、このようであったのでしょうか? しかるに、デリダとデリダ主義の場合、デリダに責任があったことは疑いようがないと思われます。しかし、われわれはポストモダンの後始末をめぐって、責任の押し付け合いをしているのではないはずです。
 死んだということは、デリダ研究者が増えるということであり、デリダ批判も増すということですから、これはデリダの思想のためにも、よいことであるかもしれません。しかるに、死者は語らないのであり、「最悪の暴力を避けるため」にも、存在は不可避であるという、デリダのことばを思い起こすならば、デリダの関心が、刹那的な言論のゲームで汚されないことを願います。デリダは、ある一定の哲学史の展開からして必然的な境界を示しまとめあげたと言ってよい。けれども、だからといって、デリダを援用して、自分の考え方の方法論を正当化するといったことでは、もはや私たちの思考も、デリダの思想の究明も、いかなる実も結ぶことがないのです。
 さしあたっては、言語は自然発生的ではないのであり、しかも、自然/人為という例の(ハイデガーがあれほどまでに苦心した問題である)二分法を「解体」しようとした試みを評価します。しかるに、デリダは、ハイデガー、ヘーゲルをめぐっては、まだまだ通過しきれていなかったのです。それなのに、晩年、政治的な「プロパガンダ」(これは哲学ではありえません)に傾いたことの意味は、けっしてデリダが哲学者としてすでに死んでいたなどということを意味しないでしょう。しかるにデリダは「グラマトロジー」を書いたときに、すでに哲学者としての仕事は尽きていた、とさえ思われます。
 というのも、「グラマトロジー」の段階ですでに、ニヒリズムとの対決はどこへ? という感触を抱かざるをえないのが、デリダの発言および著作であったからです。そしてますますデリダの死とともに、ニヒリズムは、問題として、忘れ去られてゆくように思います。脱構築や戯れといったことばとともに、ある特定のモノの言い方と、意味と価値との解体ばかりが進んでしまったことは、いったいニヒリズムの必然(これは「倫理は非倫理的に」開発されねばならない、といったようなこととは似て非なることです)と言うより、ニヒリズムの肯定であったに違いないでしょう。もしかすると、問題は先送りされつづける、そしてけっして、解答されることがない、といったこんにちの権力の円環をまず提出したという極めて微小な功績が、あるのかもしれません。しかし、これでは先んじるものが問い、後んじるものが解答して、歴史が展開するといったことはけっしてないのだ、という歴史主義批判の反動のように、矮小化したことしかわれわれには言えないのです。気がつかぬうちに、われわれはニヒリズムを肯定しているということになってしまいます。世界がニヒリズムとともにあることを肯定することと、ニヒリズムを肯定することでは、意味が異なるとはいえ、ニヒリズムという問題をたてずに回避すれば「なんとかなる」ということはありえません。むろん、問題のたてかたに、問題はたえずあるとは言えるのですが。
 ニヒリズムなどないかのようなニヒリズム、あるいは、ニヒリズムを問題としてたてることの無意味性を述べること、こうしたこともまた、知のファッションとして「現在」なのだ、と思います。ニヒリズムと対決しているからエラいのだ、というニヒリズムも含めて、ニヒリズムとの対決はますます困難になっている、という感触をデリダの死とともに深めるのです。


ああ、柄谷、浅田、東ですか。それはまぁ、わたくしにとっては、関心がないですね。

投稿: レモネードずんだ甘粕 | 2004.10.13 10:21

デリダは、もう死去しているものと思っていました。
生前にこれだけの偉業をなすとは、驚きです。
ところで、脱構築とは一言でいえばどうなるのでしょうか。

投稿: tateto | 2004.10.10 11:41

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